西久保地区の寺社

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 港区内各地区の寺社の定着年代を見ていくと、西久保(現在の虎ノ門一~五丁目、愛宕二丁目ほか)は特に早期に寺社が集中した地区であるといえる(図1-1-3-4)。まず先述した西久保八幡宮〈4-①〉は中世以前から存在したと考えられる。続いて慶長元年(一五九六)に桜田村から専光寺(せんこうじ)(真宗東派)〈4-②〉が、慶長一六年(一六一一)に天徳寺(てんとくじ)(浄土宗)〈4-③〉が霞ケ関から移転し、大養寺(だいようじ)(同)〈4-④〉が起立される。光明寺(真宗西派)〈4-⑤〉が霞ケ関から移転したのも慶長年中(一五九六~一六一五)とされる。

図 1-1-3-4 「寛永江戸全図」西久保地区の寺社
臼杵市教育委員会所蔵 一部加筆


 以上の五つの寺社は移転後西久保に定着したが、図1-1-3-4を見ると、寛永一九~二〇年(一六四二~一六四三)の段階ではこれよりもずっと多い寺院が集中しており、「西久保寺町」とでも称すべき様相を呈していたことがわかる。残念ながら広岳院(こうがくいん)(曹洞宗)〈4-⑥〉を除き寺院の特定はできなかったが、「寺社書上」の記述から西久保に所在した寺院を抽出し、一覧にまとめると表1-1-3-1のようになる。むろん全ての寺社を網羅したわけではないが、大きな傾向として「寺町」は慶長年中(一五九六~一六一五)に形成が進み、寛永年中(一六二四~一六四四)にピークを迎えたことがうかがえる。その後一六四〇~一六五〇年代に寺院の転出が進んでいくが、これらの移転先が全て港区域に当たることは興味深い。江戸が南へと拡張していくのにともなって寺院もまた新たな郊外へと移動していったのである。

表1-1-3-1 西久保地区の寺社