その他の寺町

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 一項で見たとおり、赤坂には「寛永江戸全図」の段階から安芸広島藩浅野家(松平安芸守)下屋敷の南西に寺町が存在した(図1-1-1-4〈4-⑨〉)。同図には寺院一〇か寺が確認でき、うち少なくとも四か寺は寛永一二年(一六三五)に外堀普請にともない一ツ木村から移転したとされるから、元になる寺町があったとも考えられる。構成寺院と分布にはその後変転があり、現存するのは道教寺(どうきょうじ)(真宗東派)と専福寺(せんぷくじ)(同西派)の二寺のみである。
 麻布にも寛永期(一六二四~一六四四)に小規模な寺町がいくつか形成された。まず「寛永江戸全図」の麻布龍土(りゅうど)町付近に五つの寺院が並ぶエリアが見える〈4-⑱〉。このうち名称の記載されている四寺は全て増上寺末の浄土宗寺院で、寛永六年(一六二九)に移転してきている。この場所は崇源院(すうげんいん)(江(ごう)〈一五七三~一六二六〉、二代将軍徳川秀忠正室、墓所増上寺)の葬送地にあたり、その関係によるものであろう。その北東の麻布今井町(現在の六本木二~四丁目)には「寺町」との記載が見える〈4-⑲〉。この寺町は慶長年中(一五九六~一六一五)から寛永八年(一六三一)にかけて寺院五寺が起立あるいは移転して成立している。また同図にはなぜか記載がないが、麻布桜田町(現在の元麻布三丁目、西麻布三~四丁目、六本木六丁目)付近にも元和年中(一六一五~一六二四)から寛永一〇年(一六三三)にかけて一社八か寺が起立あるいは移転している。日蓮宗寺院はこのうち五か寺を占め、ここでは多数派を占めている。
 後発的な寺町としては一項でもふれた二本榎の寺町がある(図1-1-1-9〈9-①〉)。「寺社書上」記載の同所の寺院は一三か寺あるが、これらは承応二~寛文八年(一六五三~一六六八)の間に移転あるいは起立している。