先述したように、「寺社書上」に記載される港区域内の寺社のうち八割弱は寛文期(一六六一~一六七三)までに当時の寺地に定着しており、おおむねこの時期までに寺社の起立・移転は落ち着きを見せたといえる。その契機となったのは寛文八年(一六六八)二月に相次いで江戸を襲った大火であった。この大火からの復興に際し、幕府から同年に二つの重要な規制が出されることになる(『御触書寛保集成』一一七七 *)。
第一の規制は建築規制である。これは寺社建築の梁間(はりま)を京間三間(約六メートル)まで、庇(ひさし)を同一間半(約三メートル)までとすることを定めたものである。これにより寺院建築の規模を抑制し、簡素なものとすることを目指した。
第二の規制は新地寺社の整理である。これは寛永八年(一六三一)に寺社の新設が禁止されていたことを受けて(これ以前の起立寺院は後に「古跡」と呼ばれる)、今回の火災で焼失した寺社のうち、寛永九年(一六三二)以降に起立した寺院(後に「新地」と呼ばれる)の土地の召し上げを命じたものである。つまり大火を契機に、幕府は増えすぎた江戸の寺社を削減するとともに、寺社の新設禁止の原則をより徹底したといえる。
本節で見てきたように、一七世紀前半から中盤にかけては、幕府所在地としての江戸が急速に拡大を遂げた時期であった。幕府による寛文八年(一六六八)の寺社規制は、江戸のとめどない拡大を抑制し、都市空間(建築も含む)の実態を把握・統制する政策を推進する動きの現れといえよう。 (岩本 馨)