町人地とその類型

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 町人地は近世都市における職人・商人の居住地区であり、江戸の面積の一五パーセントほどを占めていた。町人地は通りを軸とした地縁的共同体である町(ちょう)を基礎的な単位とした。町は通りに沿って並ぶ町屋敷から構成され、町屋敷を所持する者を家持(いえもち)といった。また土地は借りるが建築は自分で用意する者を地借(じがり)、土地も建物も賃貸する者を店借(たながり)といった。
 江戸の町には、職人や商人が集住する一般的な町のほか、拝領町屋敷のような武家関係の町、門前町屋のような寺社関係の町、百姓地が都市化した町並地などの類型が存在した(『新修港区史』一九七九)。このうち百姓地の町屋は主として寛文二年(一六六二)と正徳(しょうとく)三年(一七一三)に人別関係の町奉行支配への移管が大規模になされ(年貢関係は代官支配のままであり、これを町並地という)、またこれより遅れて門前町屋も延享(えんきょう)二年(一七四五)に町奉行支配への編入が行われている。
 近世後期の江戸の総町数は約一七〇〇町に達していたが、文政八~一一年(一八二五~一八二八)における幕府による御府内の町方調査である「町方書上」では、港区内の町として二八一町が書き上げられ、およそ六分の一程度を占める。これらの町の定着年代を「町方書上」の記載や絵図などから確認すると、寛文期(一六六一~一六七三)までに定着した町は六割ほどである。寺社よりも低いのは、町が幕府の意向や災害などによってしばしば移転させられたことによるものであろう。以下では初期の町人地の開発として、この時期までの動向を概観したい。なお町の履歴については、特に註記がない場合は「町方書上」に拠る。