東海道沿いの町

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 港区域の町人地は中央区のように面的には展開せず、基本的には街道に沿って線形的に延びるかたちをとった。そのうち最も主要な軸となったのが東海道である。
 東海道は起点の日本橋から南に進み、最初の宿場である品川へと向かう。途中、外堀にかかる新橋(のち芝口橋と改称)から南が港区域に当たる。一項でも見た寛永九年(一六三二)頃の江戸を描いた『武州豊嶋郡江戸庄図』には東海道沿いの町名が記されており、順に日比谷町(現在の新橋二~三丁目、東新橋一丁目)一~三丁目、源助町(現在の新橋三~四丁目、東新橋一~二丁目)、露月(ろうげつ)町(現在の新橋四~五丁目、東新橋二丁目)、柴井町(現在の新橋五~六丁目、東新橋二丁目)、宇田川町(現在の新橋六丁目、東新橋二丁目)、太郎兵衛町(現在の浜松町一丁目、芝大門一丁目か)、神明(しんめい)町(現在の浜松町一丁目、芝大門一丁目)と続いている(図1-1-4-1)。これらは江戸初期からの町ということで「古町」と呼ばれる。

図1-1-4-1 『武州豊嶋郡江戸庄図』(部分)東海道・外堀沿いの町人地
国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆
括弧内は別本からの補訂


 寛永一〇~一一年(一六三三~一六三四)頃の江戸を描いた「江戸図屛風」(国立歴史民俗博物館所蔵)に、新橋付近の町屋が描かれていることはすでに一項でもふれたが、ここではより詳細に見てみよう(図1-1-4-2)。まず町屋の屋根であるが、日比谷一丁目と思われる町では、角地の屋敷二軒のみが瓦葺(かわらぶき)で、ほかは杮(こけら)葺(ぶき)ないし板葺(いたぶき)とみられる描写がなされている。東海道沿いで瓦葺の町屋が描かれているのはここが南限である。隣り合う町屋同士の境目には防火壁としての卯建(うだつ)が高く上げられている。二階部分の高さは一階部分に比べて低い、いわゆる厨子(ずし)二階である。
 この日比谷一丁目とみられる町の描写でもう一つ注目されるのは、町屋の庇下(ひさしした)がアーケード状に通り抜けられるようになっているという点である。これは玉井哲雄が指摘するように、幅一間ほどの「庇下通り」を描いたものであろう(玉井 一九八六)。玉井によれば、明暦三年(一六五七)の大火後の復興にあたって、日本橋通り(東海道)と本町通りに限って町家に一間庇を設けることを許可する町触が出されたというが、「江戸図屛風」を見てもこのようなアーケード状の空間が見られるのはこの二つの通りであるため、この町触は大火以前の空間的様相を反映したものであったとも考えられる。もっとも、このアーケードは新橋南の第一街区までで、それ以南には描かれておらず、しだいに江戸も周縁部に入ってきていることが、ここにも表現されている。

図1-1-4-2 「江戸図屛風」左隻 日比谷町付近
国立歴史民俗博物館所蔵


 神明町以南は『江戸庄図』の範囲外であるため、ついで古い寛永一九~二〇年(一六四二~一六四三)の「寛永江戸全図」(臼杵市教育委員会所蔵)を見ると、東海道に沿って町がなお連続していることが見て取れる(図1-1-4-3)。残念ながら町名はほとんど記されていないが、位置から判断すると、神明町に続いて久右衛門(きゅうえもん)町(のち芝浜松町と改称)一~四丁目(現在の浜松町一~二丁目、芝大門一~二丁目)、芝金杉通一~四丁目(現在の芝一~二丁目)、本芝一~四丁目(現在の芝四丁目)、芝田町一~九丁目(現在の芝五丁目、三田三丁目)、牛車町(芝車町、現在の高輪二丁目)、芝如来寺門前(現在の高輪二丁目)と続き、ここで町並みは途切れている。久右衛門町までは一般町であるが、金杉橋を渡った芝金杉以南は代官支配地の百姓町屋で、これらは寛文二年(一六六二)に町奉行支配地に組み込まれ、町並地となっている。ただしこのことは必ずしも開発が遅かったことを意味するわけではない。例えば金杉から本芝にかけての一帯は中世の芝浦と推定され、船方の拠点として戦国期には宿が形成されていたところであった。

図1-1-4-3 「寛永江戸全図」に見る東海道・西久保通・三田通
臼杵市教育委員会所蔵 一部加筆


 明暦三~四年(一六五七~一六五八)頃の「明暦江戸大絵図」(三井文庫所蔵)の時代になると、町並みはさらに南に延びており、高輪北町(現在の高輪二~三丁目)と中町(現在の高輪三丁目)が「たかな町」として見える。その後年代は不明であるが高輪南町(現在の高輪四丁目)が成立し、一七世紀後半には元は別個の都市であった江戸と品川の市街地が連続するに至るのである。