日比谷入江の姿

95 ~ 98 / 499ページ
 前節に続き、本節では考古学の成果により、大地に刻まれた都市開発の具体的な様相をみていきたい。
 日比谷入江は、現在の新橋駅の南方から千代田区東部の丸の内地域まで入り込んで、神田川水系の旧平川に接していたといわれる。江戸城下町造成直前には、江戸城の東手に日比谷入江を挟んで、江戸前島が新橋方面に向けて中世より陸地化する環境にあった。江戸時代以前の日比谷入江については、これまで文献史料からの考察が行われているが、範囲や深さをはじめその姿の詳細は不詳である。また一七世紀初頭に始まるとされる日比谷入江の埋め立ての実態も具体的にはわかっていない。
 千代田区有楽町一丁目遺跡は、現在の東京ミッドタウン日比谷の地点にあたり、古環境として日比谷入江と江戸前島の境界際に位置している。堆積土層の土壌分析によって、この地点は縄文時代の海域の環境から、やがて海域と陸域の干潟環境へとかわり、さらに一二~一三世紀には離水していることが確認されている。その後、一六世紀代には陸地化し、墓域として墓跡が確認されている。入江の環境下から陸地化して人びとの生活域へと変化した姿が捉えられている。
 一方、港区域では愛宕山の東側、後に愛宕下(現在の新橋から西新橋へかけての地域)と呼ばれる武家屋敷地は、江戸以前には日比谷入江と溜池方面からの埋没谷が合流する低地帯であり、入江の開口部にあたる(図1-2-1-1)。

図1-2-1-1 中世の遺跡
 角田清美「東京都心部の小地形と海岸線の変化」『駒澤地理』52(2006)から転載


 この愛宕下地区で実施された愛宕下武家屋敷群(No.181)の遺跡の調査は、新橋から虎ノ門地区を東西方向に直線状に設定され、あたかも日比谷入江を横断する形で実施された。武家屋敷造成の直前の状況が捉えられている。まず、愛宕山東方から日比谷通り西方の数か所で、調査地点の最下面から北西から南東方向に向けた流路跡が確認されている。この痕跡は、後に桜川と呼ばれる人工の下水に付け換わる以前の、溜池方面からの流路跡である。この流路を切って、多くの東西・南北方向へ直線状に延びる素掘りの溝が確認されている。その範囲は愛宕山東方の現在の桜田通りから、東海道筋の町屋西方にまで広がる(図1-2-1-2)。この溝は、屋敷地造成に際し、低湿地の駆水と土壌の乾燥化を目的とした遺構であるとともに、この溝の一部が後の武家屋敷(二章三節参照)の境界排水路と同じ位置にあることから、初期の屋敷割りを意図していた痕跡と考えられる。

図1-2-1-2 愛宕下で発見された江戸時代初期の溝分布状況
内野正「中世江戸[日比谷入江]の景観――港区愛宕下遺跡の発掘調査の成果から」(2016)

発表資料図4をもとに大成エンジニアリングが作成した図(『愛宕下武家屋敷群-近江水口藩加藤家屋敷跡遺跡-発掘調査報告書』虎ノ門一丁目地区市街地再開発組合、2019)を転載 一部改変


 こうした屋敷造成直前の姿から判断すると、江戸城下町造成直前の日比谷入江は、沖積作用によりかなり狭小になっており、満潮時に入海となる水はけの悪い干潟のような環境下にあったことが想定できる。また、日比谷入江の中心軸は、現在の第一京浜国道付近が想定されるものの、さほどの深度がない川筋程度になっており、大型船が出入りするような環境下にはなかったと考えられる。