高台の頂上部に平場が少ない港区域では、屋敷造成などの際に高台を削平(さくへい)し、そこで発生した土砂で谷を埋め、あるいは斜面を嵩上(かさあ)げして平場の確保を図っていたことが発掘調査でわかってきた。谷の埋め立ては、千代田区紀尾井町遺跡(千代田区紀尾井町遺跡調査会 一九八八)のように、時に一〇メートルを超える場合もある。
江戸時代の人々は、関東ローム層が比較的堅固な地層であったことを知っていた節がある。高台の削平は、関東ローム層の上部の層を目安に行われていることが少なくない。ただし斜面や崖地では、下末吉(しもすえよし)ローム層(渋谷粘土層)まで掘り崩している場合がしばしば確認される。その上に複数回にわたって盛土造成を行い、屋敷地などとして利用し続けることが多く、高台、低地を問わず近世遺跡の土層は概して複雑である。造成のあり方は、敷地全域を対象とする場合や区画を限定して行う場合など各様で、その原因も被災など様々である。考古学的には、江戸時代初期の広域的な造成や、個々の屋敷造営あるいは被災後の復旧に伴う造成などの痕跡を見ることができる。
六本木の長門長府藩毛利家屋敷跡遺跡(No.129-1・No.129-2)の発掘調査では、屋敷地の高台を削り、その際に発生した土砂で斜面から谷間を埋めて屋敷地の平場を作り出し、あわせてその土砂を周辺の造成に使用していた可能性が、切土・盛土の土量の試算によって想定されている(菊地 二〇〇二)。一軒の大名屋敷の造成に留まらず、周辺域を含む一帯の造成を行っていた可能性が考えられている。赤坂にある筑前福岡藩黒田家屋敷跡第2遺跡(No.95-2 二章四節参照)では、土を複雑に動かして平場を確保したことが発掘調査から推測されている(港区教育委員会事務局 二〇〇五)。また、三田の筑前秋月藩黒田家屋敷跡(No.152)の発掘調査では、一度切土によって関東ローム層上層まで切土した際に削り取った黒色の腐植土を、再び盛り直したと考えられる地形(じぎょう)が確認されている(港区教育委員会・共和開発編 二〇〇七)。