土取り

102 ~ 103 / 499ページ
 こうした造成に用いられる土砂の供給源を土取場と呼ぶが、土取場には大別二種類の存在が知られている。
 第一は、幕府が主導したと考えられる広域事業に伴う土取場で、港区域では西久保城山および増上寺南側が知られている。西久保城山の土取場は『御府内備考』に「葺手(ふきで)町の裏松平右近将監(うこんしょうげん)屋敷の間」と記され、「西久保城山土取場」と記す江戸図もあり、上野(こうづけ)沼田藩土岐家屋敷跡遺跡(No.143)は西久保城山土取場の一画に当たる(毎田 二〇〇六)。
 この遺跡では、濁りのある乳白色を呈する下末吉ローム層(渋谷粘土層)まで削り取られ、その上に盛土をして屋敷を構えていたことが発掘調査により確認された。本来、下末吉ローム層相当層(渋谷粘土層)の上位にあるはずの赤土と通称されるローム層や黒ボク土(黒色・黒褐色等を呈する自然堆積の腐植土)は、屋敷造成前に削平されてしまったのである(港区教育委員会・共和開発編 二〇〇六)。
 第二は、個々の屋敷内の造成や普請の際に設けられた土取場である。上野沼田藩土岐家屋敷跡遺跡等では家作が建ち並び始めた後も、折々に土取りを行った痕跡が確認されている。明治期の記録であるが、陸奥棚倉(たなぐら)藩藩主阿部家の麻布霞町の自邸で建築を行う際に、邸内の一画を土取場と定めたとあり(「麻布霞町古穴発見記」および髙山 二〇一三)、江戸時代、こうしたことは広い敷地を持つ大名屋敷などでは一般的だったのであろう。  (髙山優)