こうして、ほぼ京橋川を境にその以北が神田上水、以南が玉川上水として給水され、基本的な江戸の二系統の基幹上水が整備された。後に一七世紀末までには、玉川上水から分水して、三田・千川・青山の諸上水ができ、また本所・深川方面へは元荒川から本所上水が整備され、四上水が加わった(図1-2-3-1)。
図1-2-3-1 『東京市史稿 上水篇』一、綴図
『東京市史稿 上水篇』一から転載
玉川上水は、『武州豊嶋郡江戸庄図』(寛永九年〈一六三二〉)の溜池部分に「江戸すいとうノみなかみ」と記される(図1-1-1-2⑩)ことから、従前より玉川上水以前の上水道の存在が指摘されていた。文献上で寛永期(一六二四~一六四四)の上水修復の記事や、埋蔵文化財の調査によって承応三年(一六五四)以前の上水遺構も確認され、溜池を水源とした先行の上水道の存在が報告されている(溜池については二章四節一項も参照)。