「貞享(じょうきょう)上水図」(図1-2-3-2)によれば、羽村より四ツ谷大木戸(東京都新宿区四谷)まで四三キロメートルを開渠(かいきょ)(覆いのない水路)で引いた玉川上水の幹線は、四ツ谷門前で東・南の二方向に分水される(A)。東向きには、懸樋(かけひ)(水路橋)で外堀を渡り、江戸城方面と番町や永田町および霞ケ関方面に向かう。他方、南への幹線は紀州徳川家屋敷の手前で現在の港区に入り、紀伊国坂(元赤坂)を下り赤坂溜池側へ向かう。赤坂町屋への給水路を設けながら溜池の土手際に沿って溜池水番屋(虎ノ門)(B)に延びる。続いて葵坂(あおいざか)(虎ノ門)を下ったところで北・東・南の三方向に分岐し市中へ配水する(C)。北へは、虎門に入り西丸下の大名小路や山下門(東京都千代田区内幸町)に向かう樋線(ひせん)と、虎門の手前で外堀南側に沿って東方向に進み、土橋で北に渡り京橋にいたる町人地の範囲や、築地および海岸部の大名屋敷に配水する、二方向がある(D)。一方、虎門の手前の町屋筋を東方に直進する樋線は、芝口まで道筋上にある町人地や愛宕下北側の武家地へ給水しながら、東海道に出て南に曲がり(E)、街道筋に沿って町人地および海浜の大名屋敷へ給水しながら南下して金杉橋を超える場所まで配水している。三つ目の南東方向へは、西久保、愛宕下の大名・旗本の武家地へ配水する。
図1-2-3-2 「貞享上水図」港区域
『東京市史稿 上水篇』(国立国会図書館所蔵)付図から転載 一部加筆
玉川上水竣工後の万治三年(一六六〇)には、青山上水が開削される。四ツ谷大木戸から分岐し、現在の外苑東通りに沿って幹線の南東方向に広がる赤坂、麻布、六本木、飯倉、芝(増上寺)方面の大名屋敷を主とする配水である。途中の青山で、赤坂の牛鳴坂(うしなきざか)への支線(F)と、六本木の南東で霊南坂(れいなんざか)方面につながる分水がある(G)。
また、寛文四年(一六六四)には三田上水が開削される。この上水は先行してつくられた高輪の細川家への上水と並行するように敷設された。青山上水よりさらに南方域への通水のため、玉川上水の下北沢村(世田谷区)で南東方向へ分水する(H)。現在の渋谷区、目黒区を経て、港区域には白金台から入り高輪で南北の二方向へ分かれ(I)、北へは、現在の二本榎通り沿いに、伊皿子、高輪台、三田へ延びる。さらに聖坂(三田)を下り現在の桜田通りを北上し、古川の手前まで配水する。一方、南へは品川方面へ向かう。青山、三田の両上水はともに享保七年(一七二二)に廃止されるが、三田上水はその後も農業用水として使われた(四章五節三項参照)。