発掘調査の事例

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 幹線の調査としては港区No.10・11・12遺跡の調査が特筆される。場所は、赤坂一丁目で江戸の溜池南岸にあった水番屋の手前にあたる(図1-2-3-2 B)。玉川上水の幹線樋が確認されている。樋は造成土を溝状に掘り込んで杭を打ち、胴木を渡した上に設置している。複数回にわたって造り替えられた補修痕が確認されている。基礎杭は、溜池より南に延びる谷地形上の軟弱地盤に対応したものと考えられる。
 大名屋敷での上水道のあり方を、広域の調査が行われた汐留遺跡(No.98)から見てみよう。汐留遺跡は、現在の汐留シオサイト(東新橋一~二丁目、海岸一丁目)に該当し、江戸時代には江戸湾に面し、播磨龍野藩脇坂家、仙台藩伊達家、会津藩保科家の三藩の大名屋敷が並んでいた。三屋敷の上水は、いずれも玉川上水系の東端に位置している。四ツ谷大木戸の標高が三四メートル、汐留遺跡での取入口の標高が伊達家では一・四メートルである。この距離と標高差を利用して自然流下方式によって通水している。
 仙台藩伊達家上屋敷の場合の取水口は、表門を避けて、その外周に連なる長屋建物の南北二か所に設けている。屋敷内では、管の身を溝状に刳(く)り貫(ぬ)き、蓋(ふた)をした木樋(もくひ)や竹の節を抜いた竹樋(ちくひ)と呼ばれる樋管(配管)を連続させて水を引いている(図1-2-3-3、口絵4、図1-2-3-4)。樋管の接続には、直接つなぐものや継手(つぎて)と呼ばれる接続具を用いるものがあり、その種類も多い。樋管の規模は、内幅は九~一二 センチメートル(三~四寸)が多く、長さは平均四・三メートルほどである。樋管には泉水用に引き込むものや、堀に流す吐け樋がある。また堀などを横断して通水する場合には、潜り樋(サイフォン式の原理)と呼ばれる技法によって構造物の下を潜らせる。

図1-2-3-3 汐留遺跡(伊達家屋敷上水の樋線状況、口絵4) 提供:東京都教育委員会

図1-2-3-4 上水桶と樋管の接合状態
提供:東京都教育委員会


 屋敷内は、この樋菅と汲み上げ用井戸や方向転換用、あるいは水流を確認し調節・点検するための水見用の桶・桝(ます)とつないで必要な場所へ導水している。樋管がつながる桶では、基本的に入水する樋口が低く、出水の樋口が高い位置にあり、徐々に高度を下げて通水する。
 通水方向は屋敷内に入ってすぐに三方向に分岐され、北と東への分岐は北西隅と北東への長屋地区および奥向きに引き水し、南への分岐は表向き・中奥および南側長屋の地区への給水である。一方、南側の取水口は、南周りの長屋や庭園に給水している。この屋敷では取水口から東端の海手まで、その距離約二八〇メートルを取水口の標高一・二メートル(TP:東京湾平均海面)から東端の桝の標高〇・四メートルの標高差〇・八メートルを徐々に下げつつ通水している。確認された上水の遺構時期は一七世紀中葉から幕末までに大きくⅠ~Ⅲ期の段階が明らかにされている(図1-2-3-5、図1-2-3-6)。

図1-2-3-5 伊達家屋敷上水の北側取り入れ口
東京都埋蔵文化財センター編『汐留遺跡Ⅱ 第1分冊』
(東京都埋蔵文化財センター調査報告第79集、2000)から転載

図1-2-3-6 伊達家屋敷の樋線図
東京都埋蔵文化財センター編『汐留遺跡Ⅱ 第1分冊』
(東京都埋蔵文化財センター調査報告第79集、2000)から転載


 発掘されたⅠ期の桶の枠板に承応三年(一六五四)三月と記された事例がある。玉川上水の虎ノ門までの竣工が承応三年六月であることから、玉川上水以前にあった溜池を水源とする上水の資料とも考えられる(図1-2-3-5、図1-2-3-7)。

図1-2-3-7 伊達家屋敷の上水記年銘資料
江戸遺跡研究会編『江戸の上水道と下水道』(吉川弘文館、2011)から転載


 なお三屋敷内の上水施設は、上水遺構の樋管の規模や桶・桝の種類、用い方が各藩によって相違していることから、その敷設・管理・運営については各藩が独自で行っていると考えられる。
 その他、玉川上水系での調査事例は愛宕下(No.149)、愛宕下武家屋敷群(No.181)、肥前佐賀藩鍋島家屋敷跡遺跡(No.180)、播磨赤穂藩森家屋敷跡(No.20)などがある。
 青山上水の調査事例には、長門萩藩毛利家屋敷跡(No.9)、伊予宇和島藩伊達家屋敷跡(No.139)、旗本花房家屋敷跡(No.172)、麻布市兵衛町地区武家屋敷跡遺跡(No.82)などがある。
 三田上水の調査事例には、豊後森藩久留島家・丹波亀山藩松平家屋敷跡遺跡(No.163)がある。この遺跡では、上水遺構を確認しているので、三田上水の末端に位置している可能性が高いが、三田段丘を下り切った沖積低地に立地しており、地下水を利用していたとも考えられる。