江戸の下水道

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 一方、下水の処理施設も重要な都市のインフラの一つであった。このため開府時の城下町の建設にはじまり、市街地の拡大とともに、排水施設としての下水の整備が行われた(図1-2-3-8)。下水に関連した土木工事としては元和七年(一六二一)に神田山を切り崩して江戸川の水を東に流し、寛永一三年(一六三六)には外濠を築き、明暦四年(万治元・一六五八)に小石川大下水をはじめとする大下水を構築している。また、万治年間(一六五八~一六六一)には本所地区の竪川・横川・南北割下水(わりげすい)を設けるなど、基幹となる排水施設はほぼ一七世紀中葉までに完成している。

図1-2-3-8 汐留遺跡の下水遺構(堀)
提供:東京都教育委員会


 江戸の下水道の種類には大下水、横切下水、小下水の三種類があった。大下水とは、旧来の谷を流れていた河川を人工的な排水路に改修し、往還に沿って町屋・武家地等の小下水を集め、堀や川の落口へつなぐ集水路である。普請・修復は幕府の負担である。横切下水は小下水を集めて大下水に接続する中継水路で、道路を横切ったりすることからこのように呼ばれた。その普請・修復は町の経費(町入用)と直接利用者の共同負担である。そして小下水とは、表通りの生活排水・雨水や町屋・武家屋敷の下水施設をいう。なお江戸時代の下水は、し尿などを流す現代の下水とは異なり、生活排水と雨水・湧水である。し尿は江戸時代中期以降、江戸近郊農村の貴重な肥料(下肥(しもごえ))となって流通する。
 江戸時代の港区域の下水は、基本的に西側の台地側の高所から、東側の江戸湾に向けて配水している。排水としての溝は、隣接する屋敷を区画する機能を兼ねる場合も多い。この場合所持地側の側溝の構築・修繕等は所持者の負担となるので、区画を兼ねる排水溝は大名同士や、大名、旗本、町屋などの階層の違いや、地形条件などの差によって、規模と構造が異なる。汐留遺跡の伊達家上屋敷と隣接する龍野藩脇坂上家屋敷との間の幅三・六メートル(二間)の区画溝は、両側の石積みの形態や構造に差異が見られることから、それぞれの藩によって構築されていることがうかがえる(図1-2-3-9、図1-2-3-10)。両藩の江戸屋敷内の排水溝も、それぞれがこの区画溝へつながっている。

図1-2-3-9 伊達家石垣 提供:東京都教育委員会

図1-2-3-10 脇坂家石垣 提供:東京都教育委員会


 調査で確認された下水道の構造は、素掘りの溝、木組みによる溝排水、石組みによる溝排水などがある。
 
(斉藤進)