図1-3-1-2 「三大大火」の焼失範囲
『週刊朝日百科 日本の歴史72 江戸の都市計画』(朝日新聞社、1985)をもとに作成
図1-3-1-3 明和の大火死者供養墓(西久保光明寺)
光明寺では境内に避難した男女90人が焼死した。この墓石は、その供養のために建てられたものである。
ついで番付一段目(前頭一)には、五つの火災があげられている(図1-3-1-1)。のちに「十大火事」とされた火災は、文政一二年(一八二九)の神田佐久間町(現在の東京都千代田区神田佐久間町、外神田)出火の火災しかないが、幕末の人々にはこれらが重大な火災と記憶されていたことがわかる。このうち港区域内が被災したのが文政一二年(一八二九)の火災(『港区史』上、一九六〇 四編九章)、弘化二年(一八四五)正月の青山を火元とする火災(「弘化三(二年の誤り) 青山ヨリ出火」)、そして嘉永三年(一八五〇)の麴町を火元とする火災(「嘉永三 麴町ヨリ出火」))である。いずれも明暦の大火と同じく、冬季の北西風によって延焼した。
弘化二年(一八四五)の火災は、火元が青山の幕臣の屋敷(権太原の西丸先手同心宅か鼠穴(ねずみあな)〈現在の元赤坂、北青山付近〉の大番組の屋敷)とされ、俗に青山火事と呼ばれた。正月二四日の午中刻(午後一二時二〇分ごろ)に出火後、強い北西風によって、麻布・広尾・白金・伊皿子を焼き、高輪の海辺で、戌下刻(午後九時ごろ)にようやく鎮火した。焼失範囲は幅一〇町(一・一キロメートル)・長さ三八町(四・一キロメートル)におよび、武家屋敷四〇〇、寺院一八七、一二六町を焼き、多くの焼死者を出したという(「江戸災害年表」、「弘化二年青山火事瓦版」 * 〈国立国会図書館所蔵「火災風災雑輯」所収〉参照)。
また、嘉永三年(一八五〇)二月五日の火災は、火元は麴町五丁目(現在の東京都千代田区麴町)の呉服の大店岩城升屋の後ろ、および高田放生寺拝借地(東京都新宿区)で、巳刻(午前九~一一時)に出火後、北西風にあおられて隼町・平川町・山本町辺り(現在の東京都千代田区)を焼き、さらに外桜田へ飛火したのち、芝一帯まで幅平均四町(四四〇メートル)、長さ三三町(三・六キロメートル)を焼き、亥刻(午後九~一一時)に鎮火した(「江戸災害年表」)。被害にあった町は五七、大小名邸は一四四、寺院は一九にのぼった(「江戸災害年表」、「江戸大火(仮)」 *、「方角の図」参照)。