恒常的な火災

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 このほか、小規模な火災は頻繁に発生した(五章三節コラム参照)。まず、「江戸災害年表」より江戸全体の様相を確認したい。なお、同じ日に複数の火災が起こることも少なくないが、飛び火であることも多く、件数としてカウントするのは難しい。こうしたことを前提として、以下、おおまかな傾向をつかむため、基本的に火災が起きた日数を検討していくことにしたい。

図1-3-1-4 火災発生日数の変化


 江戸全体では、火災があった日は一八〇一日である。このうち港区域の火災の記載が確定できるのは、元和三年(一六一七)の天徳寺の火災を初見として、三一〇日であった。ただし、芝地域で同じ日に離れた二か所で火災が起こった四日分については、延べ二日として計算した。図1-3-1-4には、時期ごとの江戸全体の発生日数と、港区域の発生日数を示した。一六三〇年代は港区域で発生日が確認できず、また一七二〇年代と四〇年代、幕末は江戸全体が減少しているのに対して港区域が若干増加しているが、原因は不明である。基本的には、港区域の発生日は江戸全体の傾向と一致しているといえよう。とくに一九世紀の日数の増加については、残存史料の増加によって、小規模な火災の記載も確認できるようになったことによるものと思われる。なお、一七三〇~五〇年代の発生日の減少は、町火消の整備(四章一節二項参照)など、幕府の防火政策に起因する可能性がある。
 では、港区域内の火災についてみていきたい。三一〇日の火災のうち、四八日は日本橋・京橋地域や四谷地域からの延焼で、明暦の大火のように、北西風で燃え広がった火が、芝地域の海岸で鎮まるというパターンが一〇日みられる。
 残る二六二日は、港区域が火元となった火災である。火元の土地の種別を見てみると、町人地が六〇パーセント、武家地が二九パーセント、寺社地が一一パーセントで、圧倒的に町人地が多い(図1-3-1-5)。とくに芝の町人地が六七日で全体の四分の一を占めている。港区域内が類焼した火災三一〇日の焼失地域は、各地域の内訳で見ると、赤坂地域・麻布地域がほぼ四分の一ずつで、芝地域約四〇パーセント、高輪地域が約一〇パーセントとなる(図1-3-1-6)。これは、芝地域に町人地がもっとも展開し、人口や住居の密度が高く、反対に高輪地域はもっとも人口や住居の密度が低かったためと考えられる。さらに、高輪地域は北からの延焼を新堀川(しんぼりがわ)で免れた可能性もあるだろう。なお、「江戸災害年表」によれば、港区域内の火災に関する放火は、五例であった。中でも特筆されるのは幕末の兵火(薩摩藩邸焼討事件 二章一節八項を参照)であろう。

図1-3-1-5 港区域における火災の火元

図1-3-1-6 港区域における火災の焼失地域

図1-3-1-7 月別の火災発生日数と被災範囲


 また火災の発生する時期について、月ごとの発生日数をまとめたのが図1-3-1-7である。閏月の分は便宜的に前の月に合算した。これによれば、一〇月から発生日数が増え、正月・二月がそれぞれ全体の約二〇パーセントとピークを迎え、三月より減少している。焼失面積が五〇〇平方メートル以上と推測される火災は一一四日で、同様にとくに正月・二月が多い。

図1-3-1-8 月別の火災発生日数(307日)と風向きの傾向(147日)

表1-3-1-2 安政江戸大地震の被害
①~③は1回目の調査で『江戸町触集成』16巻15701、④・⑤は2回目の調査で同15726、⑥・⑦は『東京市史稿 変災篇』1による


 風向きが判明するのは一四七日で、北西風が六七日(四六パーセント)、北風が二〇日(一四パーセント)、北東風が四日(三パーセント)で全体の六割を占める。図1-3-1-8によれば、月別に見ると一〇月から二月までがとくに北西風が強い。通説で、江戸の火災は冬季の乾燥と北西風によるものが多いとされるが、港区域でこの時期に類焼日数が増え、類焼範囲が広域におよぶのも、こうした傾向を裏付けるものといえる。