地震・噴火

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 地震については、番付で筆頭にあげられるのが安政二年(一八五五)一〇月二日の夜四ツ時(午後一〇時頃)に発生した安政江戸大地震である。ちょうどこの時期の日本列島は、弘化四年(一八四七)三月の善光寺地震より、安政三年(一八五六)の北海道駒ヶ岳の大噴火まで、地学的激動を迎えていた。安政江戸大地震の規模は推計でマグニチュード七・〇から七・一、死者は武家の被害者数が判然としないが、直後におこった火災も相まって、七〇〇〇人とも一万人前後におよんだともされている(中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会編 二〇〇四ほか)。
 青山・麻布あたりの台地の震度は五、芝は震度六弱と推測されており、「江戸地震類焼場所図」(国立国会図書館所蔵「地震風水災綴 一」所収)の大崩・中崩・小崩の三区分では、柴井丁・宇田川丁・神明社(現在の新橋付近)、および東海道より東の芝金杉(現在の芝一~二丁目)の湾岸といった低地部分が大崩、溜池沿いの赤坂伝馬町・田町(現在の赤坂・元赤坂付近)と西久保(現在の虎ノ門付近)・増上寺が小崩で、他はすべて中崩であった。さらに火災については、「外桜田兼房丁松平兵部守様御屋鋪少々御失焼」「芝柴井丁両側一丁焼」「二御台場御失焼、出火わ三日午の刻に畢(おわり)候」とされている。
 幕府が町人地について行った一回目の調査では、死者三九五〇人(男一六三四人・女二三一六人)・潰家一四三四六軒・潰土蔵一二〇二か所、二回目の調査では死者が四二九三人(男一七〇〇人・女二五八一人・不明一二人)・怪我人二七八七人(男一五八三人・女一二〇六人 合計数は史料表記のまま)で、港区域が含まれる番組と各町の被害は表1-3-1-2のとおりである。地震の被害は本所・深川や下谷が大きかったが、港区域では死者一〇五人のうち八三人が芝地区であるように、低地である芝地区の被害が大きかったことがうかがえる(図1-3-1-9・図1-3-1-10)。こうした地震の被害の痕跡は、近世遺跡で確認することができる(本節コラムAを参照)。

図1-3-1-9 安政江戸大地震と火事の被災状況

「江戸大地震之図」(東京大学史料編纂所所蔵 部分) 近年の研究により、柴井町から宇田川町の様相を描いていることが明らかとなった(杉森 2020)

図1-3-1-10 被災後の芝神明前の様子(部分)
『安政見聞誌』(早稲田大学図書館所蔵) 画面右上に芝神明宮の社が描かれている


 また、火山噴火については、宝永四年(一七〇七)の富士山の噴火の際に、火山灰が江戸に降り注いだことが知られている。港区域内の様相については本節コラムBを参照されたい。  (岩淵令治)