風水害

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 表1-3-1-1でみたように、複数の年代記や番付で取り上げられた江戸の大規模な風水害は一四件であるが、「江戸災害年表」に掲載された江戸の風水害、とくに洪水は一二六件にのぼる。隅田川や神田川・江戸川の氾濫が多く、本所・深川、浅草・小石川・小日向・牛込あたりが被害を受けた(石山 二〇一〇)。
 こうした中で、港区域の被害が確認できるのは、慶長一九年(一六一四)八月の大風雨で増上寺の山門が破損した記事を皮切りに、計四六件である。ただし、増上寺が一一件、金地院が九件など、記事が記録に残りやすい施設にやや偏っており、また幕府が大雨の時に増上寺の施設を見回っていることなどから、町人地の実際の被害はもっと多かったと思われる。
 港区域の場合、風水害の大きな要因となるのは、台風等による江戸湾に面した芝浦への高潮、大雨による汐留川・新堀川(上流は古川・渋谷川、下流は金杉川の別称あり)と外堀(赤坂溜池など)のほか、下水となった桜川の増水・氾濫であった(『芝区誌』一九三八 二篇一三章二節)。また、雨の後、麻布、芝切通、赤坂の崖がたびたび崩落し、低地部分の町屋や幕臣の屋敷が被害を受けた。
 溜池は慶長一一年(一六〇六)に整備・完成した人工池である(本章一節を参照)。また、桜川はもともと鮫河橋から溜池を経て日比谷入江に至る小河川だったが(本章二節一項を参照。肥前佐賀藩鍋島家屋敷跡遺跡〈No.180〉)、日比谷入江の埋め立てと外堀の整備により(本章一節参照)、増上寺子院と芝神明宮の間を流れて将監橋(しょうげんばし)で新堀川へ合流するように改変された。発掘調査によって、六回にわたって流路が改変されたことが確認されている(No.194遺跡)。
 新堀川は、信濃高遠藩内藤家下屋敷(現在の東京都新宿区新宿御苑)の湧水と玉川上水(本章二節三項参照)の余水を水源とするが、「寛永江戸全図」の段階では、複数の流路が確認できる(図1-3-2-1)。寛文七年(一六六七)八月には、金杉橋際に幕府が「御多門」を建設することに伴い、七間(一二・六メートル)の川幅を金杉橋より将監橋までは一八間(三二・四メートル)、将監橋より麻布十番は一一間(一九・八メートル)に拡幅して両岸に土手を築くことが計画され、岡山藩と鳥取藩に開鑿が命じられた(「町方書上」、図1-3-2-2)。その後、火災でいったん延期後、延宝三年(一六七五)に飢人の対策として川浚いが行われた。元禄二年(一六八九)刊の『江戸図鑑綱目』では、増上寺の南端から久留米藩有馬家の屋敷の北側を通り、一の橋のところで南下する流路に一本化されている(図1-3-2-3)。さらに、元禄一一年(一六九八)には、白金御殿(麻布御殿)の普請に伴って、金杉川口から渋谷までを川浚いするほか、上流の川幅を一間から拡幅し、船が通行できるようにした(「町方書上」および『麻布区史』一九四一)。その結果、船を利用した流通が活発になり、川沿いに複数の河岸が成立した。その一方で、このような流路の改変や拡幅が、水害を引き起こすこととなったのである。

図1-3-2-1 「寛永江戸全図」(部分)新堀川開鑿前の流路
臼杵市教育委員会所蔵

図1-3-2-2 岡山藩の文書に残る新堀川の図
「芝金杉より阿佐布迄之御堀絵図」岡山大学附属図書館所蔵 池田家文庫

図1-3-2-3 新堀川開鑿後の流路
『江戸図鑑綱目』(部分)国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 まず高潮についてみてみよう。延宝八年(一六八〇)閏八月六日の高潮では、巳ノ刻(午前九~一一時)より風雨、午の刻より未の刻(午前一一~午後三時)まで「強雨」で強い南風もあって、江戸中で風により倒された家が三四二〇軒余り、本所・深川などで溺死者が七〇〇人、ほか米二〇万石が被害に遭った。このとき、港区域の芝浦のあたりから本所・深川・木挽町(現在の東京都墨田区・江東区・中央区銀座)・築地に高潮があがり、場所により床上三寸(九センチメートル)から八尺(二・四メートル)までの浸水があったという(『徳川実紀』「玉露叢」『港区史』上、一九六〇)。港区域の場合、西応寺(芝二丁目)や会津藩の屋敷(上屋敷か)、片門前(現在の芝大門、芝公園)などの被害が確認できる(「西応寺丹羽前の大木をかえし、木もさけ、大きなる石碑粉のごとくにくたけたる」ほか『港区史』上)。また、安政三年(一八五六)には、安政東日本台風が東海地方から関東南部にかけて甚大な被害をもたらした。江戸の気象条件は風速四〇メートルの暴風と、二~三メートル以上の高潮であったと推測され、深川の二二五七軒に次いで、芝地域(名主組合九番組 名主番組については四章一節四項を参照)は一八二六軒が損壊した(図1-3-2-4、渡辺 二〇二〇b)。

図1-3-2-4 安政3年(1856)の台風による被害
「江戸大雨風津波雷出火之図」(部分)国立歴史民俗博物館所蔵


 また、水害と土砂崩れについては、享保一三年(一七二八)の九月一日より三日の水害の状況をみておきたい(「江戸洪水記」 * 茨城大学図書館所蔵および東京市編 一九一四)。このときの江戸の死者は三五〇〇人余りで、両国橋や新大橋なども落ちている。被害は神田橋筋の小石川・小日向・牛込のほか、目黒から品川・高輪・増上寺門前まで水高が五尺(一・五メートル)ほどになり、赤坂の元馬場あたりの屋敷が床上二尺(六〇センチメートル)まで浸水し、目黒・品川・赤坂・芝・市谷では家が流された。三~八日までに、芝新銭座(現在の浜松町一丁目、海岸一丁目付近)・金杉(現在の芝一~二丁目)あたりでは男六七人・女七人の遺体が確認されている。
 赤坂では、溜池の上の武家屋敷の土手が崩れ落ち、溜池の半分が埋まったという。赤坂の安芸広島藩中屋敷(二章四節一項参照)では南の方の土手が崩れ、町屋三軒、さらに細井金三郎ほか二名の幕臣の屋敷が潰れ、死亡者が出た。金三郎の家の者は、ある老人のすすめに従って前の町屋に避難して難を逃れたが、食料を取りに行った家来が二度目の土砂崩れで命を落としたという。また、岡田庄五郎・村松彦四郎屋敷が崩れ、赤坂一ツ木町(現在の赤坂四~五丁目)の町屋一五軒、土蔵四か所が潰れた。火消屋敷(戸田)では表の石垣が崩れ、長屋二〇間(三六メートル)ほどが潰れた。
 麻布では、狸穴の大和芝村藩織田家の屋敷近辺の崖崩れで町屋が潰れた。同じく麻布狸穴の谷底に屋敷のあった小身の幕臣加藤助五郎は、九月二日の昼、山の上にあった松平右源太(異説では長山藤右衛門 「柳営日録」)の屋敷の山が崩れ、屋敷は土砂に埋まって「ミぢん」に潰れてしまった。本人は垣根の様子を見回りに出ており、茶の間にいて掘り出された家来二人も奇跡的に無事だったが、身重の妻と一四歳の長男、九歳の次男、そして雪隠(せっちん)(便所)では見舞いに来ていた妻の母が生き埋めとなり、亡くなっている。このほか、南日ケ窪(みなみひがくぼ)町(現在の麻布十番一丁目、六本木五~六丁目)では、京極伊織ほか二屋敷が崩れて、屋敷下の町屋六軒が潰れ、また横町通り(現在の赤坂・元赤坂付近)の坂道が不通となった。麻布谷町の信濃松代藩真田家の屋敷(現在の六本木三丁目)の崖も四〇間(約七〇メートル)ほど崩れ、下の町屋一六軒ほどが潰れている。土器坂(かわらけざか)(東麻布一丁目付近)では馬場三郎左衛門屋敷が崩れ、町屋の裏店が潰れて死者が一人出ている。麻布永坂の讃岐多度津(さぬきたどつ)藩京極家の屋敷(現在の六本木五丁目)の山など、麻布永坂町の上の山も高さ三丈(九メートル)、長さ一〇〇間(一八〇メートル)ほど崩れ、町屋・土蔵が潰れたが怪我人はなかった。
 高輪でも、土佐藩山内家・磐城三春藩秋田家の抱屋敷が崩れ、屋敷下の下高輪北町(現在の高輪二~三丁目)の町屋三軒が、また久留米藩有馬家の抱屋敷が崩れ、屋敷下の下高輪南町(現在の高輪三~四丁目、港南二丁目)の町屋と土蔵一か所が崩れた。湾岸でも土砂崩れが発生し、麦茶屋四二か所が「吹潰レ」、海端石垣の上土手に押し流された。
 低地部分の多い芝地区でも、増上寺の谷間の芝切通にある芝富山(とみやま)町(現在の虎ノ門三丁目)・北新門前(きたしんもんぜん)町(現在の虎ノ門三丁目)へ阿部豊後守屋敷境の土手が崩れ、町屋の借家六軒が潰れて、五人が怪我をした。
 このように、川の流路や台地の縁辺(前節二項参照)は、開発にともなって人為的な改変を受けており、気候のみならず、まさに人為的自然の中での土地利用が災害の要因となっていたことがわかる。