火災の痕跡

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 「火事と喧嘩は江戸の華」の言葉が示すように、江戸は火災が頻繁に起こる都市であった。現代でも空気が乾燥し強い季節風が吹く冬場は特に火災に注意が必要な季節だが、江戸時代も同様で、大規模な火災の多くは旧暦の一一月から三月にかけて発生している。木造建物が多かった江戸の町は、一度火の手が上がれば広大な範囲が焼き尽くされてしまうことから、その痕跡も江戸市中の遺跡で数多く発見されている。
 遺跡に残る火災痕跡は、①地表や礎石などの建物基礎部分が直接被熱した痕跡、②火災で発生した焼土や灰を敷地内に敷き均(なら)した整地の痕跡、③いわゆる「災害ゴミ」である被災した家財道具や建物の部材を片付けた痕跡などがある。江戸遺跡で発見される火災痕跡は、圧倒的に②・③が多い。
 二章三節二項・同五節二項で取り上げる交代寄合本堂家屋敷(愛宕下遺跡〈No.149〉、東京都埋蔵文化財センター編 二〇一四)を例に見ると、年代が最も古い火災痕跡は、被熱して赤化したり、膨れたりした瓦が大量に含まれた浅い落ち込みである。幅一〇メートル・長さ一四メートルにわたって屋敷地の一角に広がるもので、上面には部分的に焼土層が薄く広がっている。共に出土した陶磁器片の年代から、寛永一八年(一六四一)の火災で発生した瓦礫を屋敷地の一角に埋めて処理したものと考えられ、前述の③にあたる。また、この遺構の六〇センチメートル上方に、厚さ約二〇センチメートルの焼土層が広がっている(図1-3-コラムA-1)。この焼土層は「振袖火事(ふりそでかじ)」の名で知られる明暦三年(一六五七)の大火、もしくは寛文八年(一六六八)の大火で発生した焼土を、屋敷地内の空地となっていた箇所に敷き均した痕跡と考えられ、前述の②にあたる。このような焼土層は屋敷地内に点在しており、かなりの量の焼土が発生した証と言えよう。明暦三年あるいは寛文八年の火災では、この他にも火を受けた痕跡のある陶磁器などが大量に捨てられた大型土坑も確認されており、この火災で本堂家が受けた被害の大きさを物語っている。

図1-3-コラムA-1 交代寄合本堂家屋敷跡の火災痕跡(土層断面)


東京都埋蔵文化財センター編『愛宕下遺跡Ⅲ 第1分冊』(東京都埋蔵文化財センター調査報告第286集、2014)から転載
提供:東京都教育委員会