六本木の湖雲寺跡遺跡で検出された富士宝永テフラ(宝永火山灰)

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 港区に降灰した宝永噴火の火山灰(富士宝永テフラ、宝永火山灰)が、湖雲寺跡遺跡で検出された。検出された火山灰を覆う地層は不明瞭であり、木片などを混入した状態であった。しかし火山灰自体は粒の大きさがよくそろった、黒砂の数センチメートルの層として産出された(図1-3-コラムB-6)。これらは直径数ミリメートル以下の黒色~灰色を帯び、気泡と呼ばれる微細な穴を多く伴うスコリア粒子である(図1-3-コラムB-7)。スコリアの化学成分(斑晶鉱物を除いた部分)は、SiO2、FeO、Al2O3の含有量(重量比)平均値が五四パーセント、一三パーセント、一四パーセントであり、典型的な玄武岩質マグマに由来することを示す(図1-3-コラムB-8)。

図1-3-コラムB-6 湖雲寺跡遺跡で検出された宝永火山灰

図1-3-コラムB-7 湖雲寺跡遺跡で検出された宝永火山灰の顕微鏡写真

図1-3-コラムB-9 秦野市三廻部で見られる富士宝永テフラ

図1-3-コラムB-8 富士宝永テフラの化学組成
いずれの軸も単位は重量パーセント


 ところで宝永噴火では、最初にSiO2を多く含むデイサイト質マグマに由来する白色軽石が噴出し、その後に玄武岩質マグマに由来する黒色のスコリアの噴出に移りかわったことが知られている。このことは、新井白石(一六五七~一七二五)が江戸で書き記した「折たく柴の記」の中で、「……二三日、前夜の地震に続いて昼頃から雷鳴のような音が聞こえ、やがて雪のように白灰が降ってきたというのです。降灰は午後八時頃止みましたが、地鳴りと地震はそのまま。二五日からは黒灰が降り始め……」という記述にも表れている。このような噴火の推移は、富士山に近いところでは噴出物に残されており、宮地により宝永噴火の噴出物は下方から上方に向けて、すなわち初期の噴出物から後期の噴出物にかけてHo-Ⅰ、Ho-Ⅱ、Ho-Ⅲ、Ho-Ⅳと区分されている(宮地 一九八四)。Ho-Ⅰ~Ⅳは都内でも確認されている。東京大学本郷構内の遺跡からは、ほぼ不攪乱の状態で四つのユニットを識別できる厚さ四センチメートルの富士宝永テフラが発見され、それぞれのユニットはHo-Ⅰ~Ⅳに対応するとされた(藤井ほか 二〇〇二、二〇〇三)。
 図1-3-コラムB-9は富士山から約四〇キロメートル離れた神奈川県秦野市三廻部(みくるべ)で見られる富士宝永テフラである。ここでは侵食により最上部のHo-Ⅳは失われているが、白色の軽石からなるHo-Ⅰは薄層ながら明瞭に認められる。Ho-Ⅰ、Ho-Ⅱ、Ho-Ⅲに含まれる軽石やスコリアの化学成分は、SiO2の含有量が上位に向かい徐々に少なくなる傾向が認められる。六本木の湖雲寺跡遺跡で検出された宝永火山灰の組成は、このうちのHo-Ⅲとよく合う(図1-3-コラムB-8)。Ho-Ⅲ、Ho-Ⅳの化学的性質は類似することと、量的に宝永噴火の噴出物の大半はHo-Ⅲ、Ho-Ⅳであること(宮地・小山 二〇〇七)から、湖雲寺跡遺跡で検出された火山灰の大半はHo-Ⅲ、Ho-Ⅳに由来するとみられる。宝永噴火は、旧暦の宝永四年一一月二三日(一七〇七年一二月一六日)の午前一〇~一二時に富士山の南東側斜面で発生し、宝永四年一二月九日(一七〇八年一月一日)までの一六日間継続した。Ho-Ⅲ、Ho-Ⅳは一一月二四日の午前一一時から一二月九日午前四時までの間に堆積したらしく、湖雲寺跡遺跡で検出された火山灰の大半はこの期間に降灰したものである。  (鈴木毅彦)