大名屋敷の種別

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 幕府は大名に原則として一年おきの参勤交代と妻子の江戸居住を強制し、その居所として拝領屋敷を与えた。参勤交代には多数の家臣らが随従し、江戸屋敷は藩の江戸役所としての機能を併せ持つことになった。そうした役割を果たすためには拝領屋敷だけでは足りず、「抱(かか)え」といって近郊村落や町方の一部を購入して屋敷地にする藩も増えていった。
 拝領屋敷には上屋敷・中屋敷・下屋敷などの区別があった。上屋敷は参府した大名が住むいわば本邸で、居屋敷(いやしき)とも呼ばれた。中屋敷は隠居した前藩主や嗣子(しし)の住居といわれているが、これを所持したのは主に中級以上の大名であり、それは全体の約半数に過ぎなかった。もともとは当主だけでなく、嗣子や隠居した先代当主など複数の者を江戸に置いて監視する必要があった大名に与えられたものとも考えられるが、中屋敷の持つ意味合いは年代によって変化しており、適確に性格づけすることはむずかしい。
 下屋敷は明暦の大火(一六五七)の後、避難先として江戸の周縁部や郊外に増えていった。その用途は様々で、藩主らの保養や上屋敷などに野菜や資材を供給するための屋敷などがあり、荷揚げに便利な海岸や河岸地に倉庫を置いたものは蔵屋敷とも呼ばれた。
 大名や幕臣に下賜される拝領屋敷は、その知行高によって坪数の基準が定められており(本章二節三項、表2-2-3-1参照)、その数にも一定の制限があったが、実際にはそれを超えて広い屋敷を数多く所持する例もあった。拝領屋敷の下賜や収公の実務は幕府普請方が担当したが、江戸時代中期以降は屋敷所持者同士の協議によって交換する相対替(あいたいがえ)と呼ばれる方法が増えていった。またその相対替などを利用して、本来は許されていない拝領屋敷の売買を内々で行うことも少なくなかった(本章二節三項参照)。
 拝領屋敷のほかに、近郊村落の田畑を買い取って屋敷地とする抱屋敷(かかえやしき)も、明暦の大火以降増加していった。それらは代官が支配する幕府直轄地や旗本知行地(ちぎょうち)、寺社領に属しており、買い取った藩は名代(みょうだい)を通してそれぞれの領主に年貢を納めた。
 江戸の周縁部の村は次第に町場化していき、幕府は土地(年貢)支配は代官所等に置いたまま、人の支配を町奉行に移管する、「町並屋敷(町並地)」と呼ばれる両属的な場所を作っていった(一章一節四項参照)。藩の中にはそれを買い取って所持するものもあった。またこの町並屋敷とは別に、中心部の町屋敷を所持する藩もあったが、その場合は通常町人の名代名義で行われた。