表2-1-1-3は、麻布龍土(りゅうど)町(現在の六本木七丁目、国立新美術館付近)に上屋敷を置いていた宇和島藩伊達家(外様一〇万石余)の江戸屋敷在住者数の変化を示したものである。この表に見られるように、同藩の江戸屋敷には、七〇〇~一〇〇〇人前後の家中(藩士ら)と一〇〇人台の奉公人(藩士の家来)、合計八〇〇~一一〇〇人前後の人々が住んでいた(幕末期については本節八項で述べる)。江戸詰の人数は藩主の参勤交代によって年々変動するのが普通であるが、この表ではその変化が少ない。他藩に比べると女性の割合が高く、そのことも考え合わせると、家族とともに江戸に常住する定府の藩士が比較的多かったのではないかと考えられる。
表2-1-1-3 宇和島藩の江戸屋敷居住者数
領民を主な対象にした人口調査であるため、江戸で雇い入れた短期の奉公人等は含まれていない可能性がある。安澤秀一「宇和島藩切支丹類族改・宗門人別改・公儀之指上人数改の基礎的研究」『(国立)史料館研究紀要』12(1980)をもとに作成。
大名屋敷の内部では、生活に必要な食料やその他の物資をほとんど生産しておらず、町方や近郊村落からの供給に頼って消費生活を成り立たせていた。そのため、それらの品物を商う商人や、施設を維持するための職人らが、藩から鑑札を与えられて屋敷に出入りした。その中には、周辺村落から肥料にするため、下肥を買い取りに来る下掃除人と呼ばれる人々もいた。
このほか、大名屋敷に住む人々は、様々な形で外部と関係を持った。大名自身は各屋敷を活用して他大名や旗本らと交際し、留守居を務める藩士も留守居組合などの活動を通じて情報を収集したりした。各藩は江戸に屋敷を持つことに伴って、幕府から江戸城の石垣や堀などの普請を課せられたり、屋敷近隣や江戸城その他重要施設の防火の義務を負わせられたりした。また周辺の治安やインフラ維持のため、辻番所を置いたり、道・橋などの普請費用を負担したり、上下水の使用料を支払ったりした(上下水道については一章二節三項を参照)。