港区域の大名屋敷

162 ~ 164 / 499ページ
 現在の港区は、江戸城に比較的近く上屋敷が多く配置された地域から、江戸の郊外にかかる周縁地域にまで広がっている。また現在の都内二三区のうちで最も起伏に富んだ地形を持っており、そのことも大名屋敷の存在形態に影響している。例えば、前述した仙台藩伊達家上屋敷は、海岸を埋め立てて成立した屋敷である。台地から低地にかかる所の屋敷では、湧水や堀川を利用した庭園が造られた。台地上の屋敷は眺めがよく、内陸寄りの地域には自然の植生を活かした郊外型に近い下屋敷が多かった。盛岡藩南部家の麻布一本松下屋敷(現在の南麻布五丁目、有栖川宮記念公園)は富士山を望む絶景の地にあり、富士見御殿と呼ばれる藩主の隠居御殿が設けられていた。
『新修港区史』(一九七九)は、文政一〇年(一八二七)の武鑑(ぶかん)(大名や幕府役人の名鑑)によって港区域の大名屋敷の分布状況を分析し、上・中・下の屋敷種別ごとに江戸全体に占める比率を次のように割り出している。すなわち、①上屋敷は江戸城直近地域に次いで多い(全二六三か所のうち七六か所、約二八・九パーセント、特に愛宕下や麻布地区)、②中屋敷も比較的多い(全一四三か所のうち五〇か所、約三五・〇パーセント)、③外辺部に小藩の下屋敷が多い(全三三〇か所のうち一一六ないし一二六か所、約三五・二ないし三八・二パーセント)、の三点である。
 それに対して表2-1-1-4は、幕末期に幕府の屋敷改が作成した「諸向地面取調書」をもとにして、土地の種別から当区域の大名屋敷の特徴をみたものである。これは敷地の筆数で集計したものであり、屋敷の数とは一致しないが、上屋敷・中屋敷の比率は『新修港区史』の値と近い。また抱屋敷(かかえやしき)の形態を個々に見ていくと、その大半は拝領屋敷の地続きであり、敷地を拡張するために買い足したものと考えられる。抱地(かかえち)というのは主に郊外村落に見られる、囲い・家作をもたないほぼ農地のままの土地であるが、それは港区域には一件もなかった。江戸の縁辺部に成立した町並屋敷は多く、全体の半数近くを占めている。町屋敷は町人名義で所持するのが通例であったため調査事例が少なく、実態を反映していない。

表2-1-1-4 港区域の大名屋敷
「諸向地面取調書」第1・3・14冊(国立公文書館所蔵)をもとに作成。安政元~2年(1854~1855)頃。


 以下、こうした地域的特徴をふまえた上で、当区内に存在した六藩の屋敷を取り上げて、その存在形態について具体的に述べていくことにする(以下、それぞれの位置は図2-1-1-2を参照)。紀州藩徳川家赤坂中屋敷(現在の元赤坂二丁目、赤坂御用地、図のB)は、江戸時代中期以降は実質的に上屋敷(居屋敷)として使われていた。大名の居屋敷としては最大級の規模であり、起伏に富んだ地形を利用して広大な庭園が設けられていた。長州藩毛利家麻布龍土下屋敷(現在の赤坂九丁目、東京ミッドタウン、図のC)は、上屋敷や中屋敷が火災に遭った時には藩主家族の避難先となり、藩の江戸役所としての諸機能を合わせもった。火災後の再建工事に莫大な費用と労力を要したことが、残された史料に記されている。
 盛岡藩の支藩として成立した八戸藩南部家は、元禄期に麻布市兵衛(いちべえ)町に上屋敷(現在の六本木一丁目、図のD)を移し、以後その近隣に下屋敷などを獲得していった(現在の南麻布三丁目、図のEなど)。上屋敷に住んだ勤番藩士の親子二代にわたる日記には、屋敷外に遊山・参詣・買物に出かけた様子が詳しく記されている。久留米藩有馬家芝上屋敷(現在の三田一丁目、図のF)は、邸内社水天宮と巨大な火の見櫓(やぐら)で知られる屋敷である。この屋敷に単身居住した勤番藩士の日常生活を描いた絵巻が残っている。浜松藩水野家三田下(中)屋敷(現在の芝五丁目、図のG)は天保期の老中水野忠邦の屋敷である。老中在職中も忠邦の処分後も、通常の中屋敷・下屋敷とは異なる役割を果たしていた。高松藩松平家目黒下屋敷(現在の白金台五丁目、国立科学博物館附属自然教育園、図のH)は、江戸の縁辺部に近い屋敷である。拝領地に隣接する町村から土地を買い取って拡大し、その部分の年貢を負担していた。  (宮崎勝美)