広大な中屋敷=居屋敷

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 赤坂御用地(元赤坂二丁目)の広大な敷地には、かつて紀州藩徳川家(御三家五五万五〇〇〇石)の中屋敷があった。同藩は麴町(こうじまち)(現在の東京都千代田区)の上屋敷(明暦の大火〈一六五七〉後に竹橋から移転)をはじめとして十数か所におよぶ屋敷地を所持していたが、面積二万四〇〇〇坪余の麴町屋敷は徳川御三家の上屋敷としてはやや狭く、そのため、藩主の居屋敷として用いられていた期間は意外に短かった。それを補うかたちで利用されたのが、この赤坂中屋敷である。麴町屋敷では、文政六年(一八二三)の類焼後はついに殿舎が再建されず、赤坂屋敷がその機能を代替することになった。赤坂屋敷は、寛永九年(一六三二)に初めて拝領したのち、たび重なる添地拝領、相対替、借地、抱屋敷の買得等によって拡張を続け、天保一三年(一八四二)には総面積一四万五三八一坪に達していた。これは、大名の居屋敷としては、加賀藩や尾張藩などをしのぐ最大の規模であった。
 図2-1-2-1は、天保一二年(一八四一)頃に作成された赤坂中屋敷の全体図である。この屋敷には、二つの御殿が存在した。一つは北東部の通称赤坂御殿(御本殿などとも、現在の迎賓館付近)、もう一つは南西部の青山御殿である。両者のうち、赤坂御殿の方が主要な殿舎であり、藩主の居所はそこに置かれていたが、天保六年(一八三五)に全焼し、その後約六年を経て再建された。この絵図には、その再建後の姿が描かれている。当時の藩主徳川斉順(なりゆき)(一八〇一~一八四六)らは再建期間中、青山御殿を居所とした。そのため、二つの御殿はともに充実したものになっている。青山御殿の地は、元禄八年(一六九五)に赤坂屋敷が類焼したのちに拝領した添地で、そこに二代藩主徳川光貞(みつさだ)の正室安宮(やすのみや)(一六二五~一七 〇七)の御殿が造営された。安宮が伏見宮家の出身であったため、この御殿は宮様御殿とも呼ばれていた。

図2-1-2-1 紀州藩赤坂中屋敷絵図(部分、上部が北)
「紀州徳川家赤坂邸全図一分計」(宮内庁宮内公文書館所蔵)に加筆


 赤坂屋敷の地形的な特徴は、二つの御殿地をはじめ敷地の外周寄りの部分が台地上にあり、中心部は比高差十数メートルの深い谷によって刻まれていることである。中央北側から流れ込む元赤坂川が三つの大池を作り、それを利用して西園(さいえん)と呼ばれる大規模な回遊式庭園が設けられた。名園と称賛されたこの庭園の内部には、五十八勝あるいは六十二景などという多数の名勝が配されていた。その風景の壮麗さは、様々な絵師によって描かれた庭園画からうかがい知ることができる(図2-1-2-2)。

図2-1-2-2 赤坂中屋敷の庭園風景(部分)
桜の名所冝春観を描く。坂昇春筆「赤坂御庭図画帖」(和歌山市立博物館所蔵)のうち「冝春観開花」。