勤番藩士酒井伴四郎

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 紀州藩の下級藩士酒井伴四郎(一八三四~?)は、幕末の万延元年(一八六〇)から翌文久元年までの一年半余りと、元治二年(一八六五)の二か月半の二回にわたって江戸詰をし、その毎日の生活を事細かに日記に書き記した。彼は赤坂御殿の脇の相ノ馬場付近にあった長屋に、叔父宇治田平三、同行した他の藩士、伴四郎の従者為吉と合わせて四人で同居した。図2-1-2-1の絵図から、その相ノ馬場付近の表長屋部分を抜き出したのが図2-1-2-3である。伴四郎家も叔父の家も禄高は二五石であったから、規定どおりに割り当てられたとすれば、長屋の間口はせいぜい三間程度である。この図でいうと、左辺の比較的間口の狭い長屋がそれに該当するとみられよう。

図2-1-2-3 相ノ馬場付近の表長屋(部分)
「紀州徳川家赤坂邸全図一分計」(宮内庁宮内公文書館所蔵)に加筆


 伴四郎の勤めは、衣紋方(えもんかた)として小姓衆に装束作法の稽古を付けることであったが、勤務は短時間で回数も少なく、その余暇には朋輩(ほうばい)らと連れ立ってたびたび外出した。表2-1-2-2は万延元年(一八六〇)九月の日記から、それに関する記事を抜き出したものである。この月は衣紋稽古の勤務があったのは七日、それに対して外出記事は、江戸市中各地の見物や寺社の参詣、屋敷近隣での買物や常磐津(ときわづ)の稽古を含めると二二日におよんでいる。出先で飲食した内容も詳しく記されており、また幕末という時節柄、外国人を見かけたとする記載もあって興味深い。

表2-1-2-2① 酒井伴四郎の外出記事(万延元年〈1860〉9月)

「江戸江発足日記帳」東京都江戸東京博物館所蔵、小野田一幸・高久智広編『紀州藩士酒井伴四郎関係文書』(清文堂出版、2014)をもとに作成


 伴四郎ら勤番藩士は、普段は長屋で交代で煮炊きをした。食材をはじめ生活に必要な品物は、屋敷に出入りする商人のほか、門外に出かけて周辺の町屋で購入している。日記にしばしば表れるのは「坂下」での買物である。赤坂御殿付近は高台の上にあり、そこから南東に下る坂は紀州藩にちなんで紀伊国坂(きのくにざか)(元赤坂一丁目 口絵6)と呼ばれていた。勤番藩士らは、その先にある赤坂の町屋を指して、坂下と呼んでいたのである。  (宮崎勝美)