図2-1-3-1は、その作事のために作成された屋敷絵図である。敷地はこの当時三万三七八〇坪の広さがあった。中央の主要な御殿のほか、表門の脇に嫡子夫妻らのための東御殿が配置されている。御殿の続きには、低地の泉水を中心にした庭園(清水園)が広がっている。庭園脇の馬場沿いに檜(ひのき)が数多く立ち並んでいたため、檜屋敷とも呼ばれていた。
火災で類焼した屋敷が再建されるまでは、この屋敷が上・中・下三つの屋敷の機能を併せ持つことになった。長州藩の江戸屋敷居住者は、延享三年(一七四六)の調査によると、各屋敷合わせて侍(士分)三〇八人、足軽一六八人、中間八二〇人、又者(またもの)(陪臣)その他八七五人、計二一七一人であった。明和九年のこの時も、おそらく二〇〇〇人以上の江戸居住者がいて、その大半がこの下屋敷に集住することになったものと思われる。
図2-1-3-1 長州藩麻布龍土下屋敷絵図(上部が北)
「江戸麻布御屋敷土地割差図」(山口県文書館所蔵毛利家文庫)に加筆。明和9年(1772)頃。