目黒行人坂の大火

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 明和(めいわ)九年(一七七二)二月二九日、目黒行人坂(ぎょうにんざか)の大円寺に発した火災は、富士南といわれる南西の風にあおられて江戸城直下の武家屋敷や町屋等を焼き尽くし、千住付近まで延焼した。江戸三大火の一つに数えられる、目黒行人坂の大火である(一章三節一項参照)。長州藩毛利家(萩藩とも、外様三六万九〇〇〇石余)は、この火災によって、外桜田の上屋敷とそれにほど近い新シ橋(あたらしばし)の中屋敷を失った。上屋敷には藩主毛利重就(しげたか)(一七二五~一七八九)ら、中屋敷には嫡子治親(はるちか)(一七五四~一七九一)夫妻らが住んでいたが、それぞれ家臣とともに麻布龍土町の下屋敷(現在の赤坂九丁目、東京ミッドタウン 二章五節一項も参照)に避難した。その後も財政難のため上・中両屋敷の本格的な復旧にただちに取りかかることができず、下屋敷を増改築してそこに拠点を移すことになった。
 図2-1-3-1は、その作事のために作成された屋敷絵図である。敷地はこの当時三万三七八〇坪の広さがあった。中央の主要な御殿のほか、表門の脇に嫡子夫妻らのための東御殿が配置されている。御殿の続きには、低地の泉水を中心にした庭園(清水園)が広がっている。庭園脇の馬場沿いに檜(ひのき)が数多く立ち並んでいたため、檜屋敷とも呼ばれていた。
 火災で類焼した屋敷が再建されるまでは、この屋敷が上・中・下三つの屋敷の機能を併せ持つことになった。長州藩の江戸屋敷居住者は、延享三年(一七四六)の調査によると、各屋敷合わせて侍(士分)三〇八人、足軽一六八人、中間八二〇人、又者(またもの)(陪臣)その他八七五人、計二一七一人であった。明和九年のこの時も、おそらく二〇〇〇人以上の江戸居住者がいて、その大半がこの下屋敷に集住することになったものと思われる。

図2-1-3-1 長州藩麻布龍土下屋敷絵図(上部が北)
「江戸麻布御屋敷土地割差図」(山口県文書館所蔵毛利家文庫)に加筆。明和9年(1772)頃。