江戸詰家臣らの生活

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 屋敷絵図の色分けを見ると、殿舎だけでなく、上・中両屋敷から移り住む藩士らのための長屋も多数建築されたことがわかる。長州藩の場合、定府の家臣は比較的少なく、その長屋は図中に数軒描かれているだけである。延享三年(一七四六)の調査で江戸詰人数の四割強を占めていた陪臣らは、それぞれ主人である藩士の長屋の二階(屋根裏)等に住み、足軽や国元および江戸で雇い入れられた中間らは、屋敷の西寄りの長屋や大部屋で集団居住した。
 屋敷に住む藩士らには、日常生活に関する様々な規制が加えられていた。一例を挙げると、江戸時代前期には屋敷内に共同風呂がなく町方の湯屋を利用していたが、正保三年(一六四六)の規定では毎月の外出はそれを含めて五回までと制限されていた。しかし実際にはそうした規制には抜け道があったらしく、享保一五年(一七三〇)に八代将軍徳川吉宗の命によって赤坂氷川社が拡張造営された後は、その境内の遊び女を置く茶屋に立ち寄る藩士が続出したことが、史料からうかがえる。