屋敷の内と外

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 屋敷の北寄りには、二〇〇石の寺領を与えられた円明院という真言宗の邸内寺院があり、藩主家族の健康・安産や作事・普請の無事などの祈禱を行っていた。その隣の天神社や庭園内にあった稲荷社・観音堂は円明院が管理し、それぞれ毎年決まった祭礼日には外部にも公開した。中でも表門向かいの麻布龍土町(四章六節一項も参照)の町人は前町の者と呼ばれ、優先的に参詣が許された。
 江戸の武家屋敷では、町方および近郊村落から生活物資や用役の供給を受けることによって、居住者の生活を成り立たせていた。屋敷に出入りする町人らには、門を通行する定札(じょうふだ)が与えられた(四章四節コラム参照)。長州藩の史料には文化元年(一八〇四)と天保一〇年(一八三九)の出入町人書上が残っており、前者には三〇九人、後者には一八六人の名前が記されている。表2-1-3-1は、後者から町人らの業種や扱う品目をおおまかに分類して、書き出したものである。中には「紙・荒物・酒・肴・鮓・醤油・味噌商売」などのように多品目を扱う者もあり、出入りの頻度も不明であるから、業者・品目ごとの数量的な比較はできない。書上には「弐人昼夜定札弐枚」「壱人定札壱枚」などと記されており、それぞれ夜間出入りの可否や同行者の人数が決められていた。なお、例えば加賀藩など他藩では、御殿と家臣長屋等への出入りが区別されている例がある。長州藩の書上にはその点が明示されていないが、「新御部屋御用」「諸固屋(小屋、長屋のこと)之用向」といった記載が見られるので、おのずからその区別がなされていたものと考えられる。出入町人らは定札の給付に際して、屋敷から三町(約三三〇メートル)以内で火事があった場合は早速駆け付ける、などといった内容の請書を提出している。

表2-1-3-1 出入り町人らの業種・品目
「定札持諸商人付立」(天保10年〈1839〉、山口県文書館所蔵毛利家文庫)をもとに作成


 武家屋敷では周辺の治安維持のため、大藩の場合は一手持ち(単独で維持すること)、それ以下の藩や幕臣は近隣数家で組合持ちの辻番所を設置して番人を置いていたが、財力があると見られた大名屋敷には時折捨子があり、辻番所の番人がそれを見付けて保護することが多かった。長州藩の屋敷では、元禄八年(一六九五)から文化六年(一八〇九)までの間に、少なくとも二七件の捨子があった(中野 二〇一四)。うち一一件が上屋敷、一件が中屋敷、一四件が下屋敷付近、一件が郊外若林村にあった抱屋敷(現在の東京都世田谷区若林)の事例である。表2-1-3-2は、下屋敷関係一四件の中から六件を抜粋したものである。捨子は屋敷内または近隣町方の乳持ちの女性に預けられ、辻番所を管轄する幕府目付に届け出たのち、養子として貰い受けたい者を探し、添金(養育料)と門札(捨子一代限りの屋敷出入権)を添えて引き渡された。貰い手を仲介してその請人となったのは主に屋敷出入りの町人であり、中でも麻布龍土町の者が多かった。    (宮崎勝美)

表2-1-3-2 長州藩下屋敷付近の捨子
中野達哉『江戸の武家社会と百姓・町人』(岩田書院、2014)116~123頁から抜粋