上屋敷の変遷と構造

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 盛岡藩南部家の分家である外様小藩の八戸藩南部家(二万石)の場合、江戸屋敷が港区域に集中している(岩淵 二〇一三)。図2-1-4-1には、八戸藩の江戸屋敷の変遷を示した。

図2-1-4-1 八戸藩の屋敷の変遷
岩淵令治「参勤交代と幕府への勤め」『新編八戸市史』(2013)から転載 一部改変
安政3年の情報は「諸向地面取調書」(国立公文書館所蔵)、ほか天保12年「御下屋鋪御相対替一件」などによる


 上屋敷は、まず立藩から一〇か月後に新興開発地であった本所(現在の東京都墨田区 ①)に与えられたのち、浅草新堀(浅草の新吉原付近 ②)、愛宕下(③)へと、約三〇年間で江戸の東部→北部→南部とめまぐるしく場所が変わった。そして、二代藩主直政(なおまさ)(一六六一~一六九九)が幕府の側用人となった翌日の元禄元年(一六八八)一一月一三日に、江戸城の西丸下(東京都千代田区 ④)に上屋敷を拝領する。しかし病気を理由に、翌年一月二六日に側用人を辞すと、二月九日には上屋敷を麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目 ⑤)に移された。以後、上屋敷はこの地から移動することはなかった。
 図2-1-4-2は、享保五年(一七二〇)五月~七年六月に比定できる上屋敷の建物の配置図である。享保六年二月の上屋敷全焼に伴って作成された設計図か設計案の図であろう。ここでは、実際の設計図として屋敷の中を見てみよう。

図2-1-4-2 八戸藩上屋敷絵図
岩淵令治「参勤交代と幕府への勤め」『新編八戸市史』(2013)から転載 一部改変


 享保二年段階の敷地の総面積は、三四八九坪(幕末には四五〇〇坪)であった。このうち、東側(図2-1-4-2上側)に突出し、我善坊谷(がぜんぼうだに)(麻布台一丁目 三章二節三項参照)という谷に面した部分の六七五坪は「谷通り」とされた。他の史料で残りの部分を「上通り」とするように、「谷」地区は一段低くなっており、現状でも最大で一六メートルの比高差がある。東・北・南の屋敷境は板塀で囲われ、通りに面した側(図下側)は表長屋と表門(B1)が、「谷」地区の西南角(同図右中)にもう一つ門(D12「谷門」)が設けられている。表門(B1)から南側(同図右側)、さらに東側(左側中)にかけて、さらに「内がわ板へい」と門が設けられていることから、敷地内も板塀の内と外に大きく二つに区切られていたことがわかる。塀の内側には御殿が建てられていた。北側(同図左下)には塀は廻っていないものの、C7は女中の「長局(ながつぼね)」であり、縁側が庭に面していることから、C7の建物までが御殿の一部と見てよいだろう。御殿も塀で区切られ、藩主とその家族の生活空間、藩主の執務空間、接客空間、役所、東側(同図上側)には二つの庭が設けられていた。
 一方、御殿の外の空間は、表通りに面した表長屋(図下)、北側(C)の長屋、南側に馬場、土蔵(C9・C10)と厩(D10)をはさんだ東側の「谷」地区の長屋の大きく四つの区域からなる。長屋は藩士の住居であり、井戸と雪隠(せっちん)(便所 C8)が外に設けられていることから、これらは共同利用であったことがわかる。「谷」地区の長屋は茅葺(かやぶき)・柿庇(こけらひさし)であることから、おそらく表長屋や北側(C)の長屋よりも格下の藩士の住居に充てられたと考えられる。なお、上屋敷については、昭和六三~平成二年(一九八八~一九九〇)、平成九~一〇年(一九九七~一九九八)、平成二三年(二〇一一)の三度にわたり、約二七〇〇坪分(+二次調査分面積不明)について発掘調査が行われ(陸奥八戸藩南部家屋敷跡遺跡〈No.83〉)、礎石建物跡、蔵跡、地下室、井戸、ゴミ穴、区画溝などの遺構や、火災の痕跡、整地が確認された。また、八戸藩南部家の家紋向鶴(むかいつる)紋の入った鬼瓦や、御殿の儀礼で使用されたと思われる高級な食器から、長屋で生活する藩士の生活用品まで、多彩な遺物が大量に出土している。