他屋敷の獲得

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 八戸藩はこの上屋敷を起点に、港区域を中心に江戸の南側に他の屋敷を獲得していった。とはいえ、八戸藩は、上屋敷以外、長らく屋敷を拝領できず、渋谷に土地を購入し、抱屋敷(かかえやしき)(本章一節一項参照)を設けている(図2-1-4-1⑥)。そして、立藩から約一五〇年後の寛政四年(一七九二)、八戸藩は上屋敷に近い麻布新町(現在の南麻布三丁目)にようやく下屋敷を与えられた(同⑦)。この麻布一本松下屋敷を足がかりとして、藩はさらに屋敷を獲得していく。まず寛政九年(一七九七)には、麻布下屋敷の土地四〇〇坪を引き替えに、三人の幕臣が屋敷を交換する形をとり、二六〇両を払って上屋敷に隣接する旗本高島家の屋敷一〇〇九坪を取得し、上屋敷の拡張を果たした(同⑤’)。新御殿が建設されていることから、隠居した七代藩主南部信房(のぶふさ)(一七六五~一八三五)か新藩主南部信真(のぶまさ)(一七七八~一八四六)の住居建設のためと考えられる。さらに、天保五年(一八三四)には、上屋敷の斜め向いの屋敷一〇〇〇坪を持つ旗本平野家と、麻布下屋敷の土地四三四坪と交換し、もう一つの下屋敷(藩では中屋敷とも呼ぶ)を設けた(同⑧)。取得の背景には、文化八年(一八一一)二月の大火で上屋敷を焼失した際に、藩士を麻布下屋敷に収容しきれず、一部の家臣を本藩である盛岡藩の桜田下屋敷に、足軽小者(こもの)を町家に仮住まいさせた経験があると思われる。
 また、渋谷抱屋敷は文政三年(一八二〇)に美濃加納藩に売却したが、天保一四年(一八四三)には白金に三九四九坪の抱屋敷を取得している(同⑩)。このほか、文政二年(一八一九)より本格化した干鰯(ほしか)・鉄などの藩専売の商品を江戸で売りさばくための拠点として、江戸の物流の地である深川(ふかがわ)に蔵屋敷を置いたが(同⑨・⑨’)、基本的には八戸藩の屋敷は上屋敷を中心とした港区域に展開したのである。こうした江戸屋敷の展開には、外様大藩の分家として一七世紀半ばに成立した後発の小藩の特徴が現れているといえる。