勤番武士の生活

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 では、参勤交代で八戸から江戸にやってきた藩士(勤番(きんばん)武士)たちは、この江戸屋敷でどのような生活をおくっていたのであろうか。一九世紀に計一〇年間、上屋敷に滞在した上級藩士遠山家(一〇〇石)の遠山屯(たむろ)・庄七(しょうしち)親子二代の江戸日記から、その行動を見てみよう(岩淵 二〇〇七)。
 一〇年間の滞在日数は約三五〇〇日で、このうち外出は八五〇日、平均で週二日であった。また、上屋敷より二キロメートル以上離れた地を訪れたのは一一二日に過ぎない。地域別に見てみると、彼らの外出先は、西郊・南郊(図2-1-4-3)が七九パーセント、ついで買物で足をのばすことのある日本橋・内神田・京橋(Ⅱ)が一〇パーセントで、屋敷から遠方にあたる外神田・北郊(Ⅲ)や本所・深川(Ⅳ)は極めて少なかった。さらに、屋敷から二キロメートルの「近所」、いわば〝生活圏〟への外出が、九〇パーセント近くに上っている。
 その理由は、まず勤務による拘束があったからである。例えば、遠山親子が最も多く務めた藩主の側仕(そばづかえ)の納戸役(道具の管理と近侍を行う)の場合、早番(およそ八~一四時)→(休息)→泊番(一八~八時)→(休息)→跡番(翌日の一四~一八時)→非番(休日)が基本的なサイクルであった。さらに、私用の外出には日数制限・時間制限があり、自由に外出することはできなかった。一日出かけられる日(五~六時より一九時半~二〇時半頃まで)は月三日(夏季は五日)に過ぎなかった。このほか、日数の制限がない外出として「銭湯出」があったが、時間が二時間に限られた。こうした結果、彼らが主に余暇を過ごしたのは、屋敷の内か、港区域を中心とする屋敷から二キロメートル以内の生活圏となったのである(図2-1-4-3・図2-1-4-4)。

図2-1-4-3 遠山親子の訪問先①
岩淵令治「八戸藩江戸勤番武士の日常生活と行動」『国立歴史民俗博物館研究報告』138(2007)から転載 一部改変・加筆

図2-1-4-4 遠山親子の訪問先②
同心円はⒶを中心に1kmごとを示す。岩淵令治「八戸藩江戸勤番武士の日常生活と行動」『国立歴史民俗博物館研究報告』138(2007)から転載(一部加筆)。


 こうした勤番武士たちの行動も相まって、彼らの生活圏には衛生(銭湯や髪結)・商品のレベルに応じた複数の購入場所(図2-1-4-3・図2-1-4-4の(40)芝神明前〈五章一節三項参照〉・(31)愛宕下や(32)切通の露店から(36)三井の支店松坂屋〈四章四節二項参照〉という大店まで)・芸能鑑賞の場((29)赤羽根の寄席(よせ)〈五章三節参照〉)が成立し、また信仰対象となる神仏((40)芝神明宮、(30)赤羽根水天宮、(20)虎ノ門金昆羅社、(26)西久保八幡)などが賑わうことになったのである。多くの町人地が武家地・寺社地の狭間に展開するという、江戸時代の港区域の社会のありようがうかがわれよう(四章四節五項参照)。
 また、二キロメートル以上離れた遠出の場所については、高級品購入の場である日本橋・京橋以外は、基本的には物見遊山を目的とした。こうした遠出の機会は限られたため、開帳(図2-1-4-3 ②市谷茶の木稲荷、(49)広尾天源寺毘沙門天、(6)青山善光寺観音、(95)亀戸天神、(91)富岡八幡宮の成田不動、(90)深川浄心寺での身延山祖師像など)や花の見頃((85)団子坂・(86)染井の菊見物、(98)堀切の菖蒲見物)などに合わせた計画的な訪問となった。ここで興味深いのは、一度限りの訪問が多い点である。三回以上訪れたのは、図2-1-4-3の(58)目黒不動や、(4)~(6)青山、(3)麴町など屋敷に比較的近い南郊・西郊のほか、前藩主の影響を受けたと推測される日蓮宗信仰による参詣((1)堀之内妙法寺・(84)雑司ヶ谷法明寺)、(88)両国、(82)吉原、主に江戸定府の頃の先祖の菩提寺(78)法福寺への墓参とセットで立ち寄った(79)浅草寺しか見られない。これは、次々と創出されていく名所が、個性を失った結果ではなかろうか。だからこそ、各名所の個性を強調し、記号化するための媒体、装置として錦絵や案内書が必要だったと考えたい。
 また、彼らの外出の目的で注目されるのが、買物である。一回の外出でも目的が複数あればそれぞれカウントする、という方法で集計した結果、衛生関係(銭湯〈四〇パーセント〉+髪結〈四パーセント〉)、買物(一五パーセント)、参詣(一三パーセント)、芝居見物(四パーセント 三座の歌舞伎、境内の見世物興行、寄席の浄瑠璃など)、見物(四パーセント 花見、吉原見物、角力見物、(19)善福寺のアメリカ公使館への異人見物、火事場見物、大名庭園の拝見など)、交際・訪問(二パーセント)、不明(一八パーセント)となった。衛生関係が多いのは、時間的な制約によるところも大きいと思われるが、買物は縁日での買物という形で参詣とセットになることが多いため、外出の目的として買物がかなりのウェイトを占めていたということになる。
 買物にあたっては、彼らは相互に情報を共有して江戸の店や相場を把握し、互いに必要な品を江戸で調達し、藩の飛脚・船、幸便(こうびん)(移動する知人に手紙や荷物の輸送を託す)で恒常的に国元に届けていた。やがて、互いの荷物をとりまとめ、藩の荷物便の発送に委託して送る寄合荷(よりあいに)という手段まで登場する。購入品は煙草入れや煙管(きせる)といった嗜好品のみならず、箒(ほうき)や古着といった日用品、正月に欠かせないみかんなどにおよび、江戸での買物が日常化していたことがうかがえる(岩淵 二〇〇四)。
 勤番武士は、余暇を利用して名所をめぐり、食べ歩きと土産物の買物にあけくれた田舎者、とされることが多い。しかし、立ち振る舞いや服装が異なっていても、江戸の風物に一喜一憂する田舎者ではなかった。実際にはその行動は制限されたため、事前の情報によって効率的な行動を行うとともに、半径二キロメートルの生活圏が活動の中心となった。屋敷の近辺の町の人びとにとって、彼らは大事な〝常連〟さんだったのである。
(岩淵令治)