火の見櫓と水天宮

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 久留米藩有馬家(外様二一万石)は明暦の大火(一六五七)の後、江戸城直近の大名小路にあった上屋敷を返上して、芝の下屋敷(現在の三田一丁目)を上屋敷に振り替えた。江戸時代の特に前期、外様大名は幕府からその動向を監視される対象であり、加賀藩の二代藩主前田利常(としつね)(一五九四~一六五八)などは龍ノ口(たつのくち)(大手門前)に与えられていた上屋敷を「気遣いなる所」と言って嫌っていたという。有馬家がわざわざ江戸城から遠く離れた芝の地に上屋敷を移した理由は不明であるが、そうした状況と無関係とは言えないであろう。
 この屋敷は移転当初は面積一万坪であったが、のちに拡張し、幕末期には二万四九二五坪の規模に達した。屋敷の北側には新堀川(古川)が流れ、増上寺裏門方面に渡る赤羽橋が近くに架けられていた。新堀川は、海手から内陸部に物資を輸送する水路として活用されていた(一章三節二項参照)。赤羽橋は、「御府内備考」によると延宝(えんぽう)三年(一六七五)に架けられた。近隣の大名・旗本の共同負担によって維持管理されることになり、貞享五年(元禄元・一六八八)には、久留米藩のほか徳島藩蜂須賀家、土佐藩山内家など一〇家の大名・旗本によって、橋組合が結成されている(松本 二〇一九)。
 江戸後期の浮世絵は、この屋敷をたびたび題材として取り上げているが、それらには必ず水天宮の幟(のぼり)と巨大な火の見櫓(やぐら)が描かれている(図2-1-5-1)。水天宮は文政元年(一八一八)に国元から勧請した邸内社で、毎月五日の公開日には多数の参詣者が群衆となって押しかけ、その賽銭収入は年間一五〇〇両にもおよんだという(岩淵 二〇〇四)。

図2-1-5-1 久留米藩芝上屋敷を描いた浮世絵
新堀川の対岸から久留米藩上屋敷を望む。左上に火の見櫓、右隅に水天宮の幟が見える。二代歌川広重・三代歌川豊国「江戸自慢三十六興 赤はね火之見」国立国会図書館デジタルコレクションから転載。


 久留米藩は、増上寺火の番の役をたびたび務めた。江戸に屋敷を持つ大名はすべて、近所火消といって、その周辺三丁(約三三〇メートル)または五丁(約五五〇メートル)以内の火災時に出動する義務を負っていた。また、それとは別に江戸城・湯島聖堂・増上寺・寛永寺など特定の重要拠点を受け持つ所々(しょしょ)火消や、一定のエリアを担当する方角火消の役を命ぜられることがあった。屋敷内の火の見櫓は、一般の大名の場合は高さ二丈五尺(約七・六メートル)以下に制限されていたが、増上寺火の番を務める久留米藩は高さ三丈(約九・一メートル)の櫓を建てていた(口絵6)。