屋敷内の配置

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 図2-1-5-3は嘉永二年(一八四九)頃の屋敷絵図である。同年一二月、一二代将軍徳川家慶の養女精姫(あきひめ)(有栖川宮韶仁親王(ありすがわのみやつなひとしんのう)の娘、一八二五~一九一三)が藩主有馬頼咸(よりしげ)(一八二八~一八八一)のもとに輿入れし、それに備えて大規模な殿舎(住居)が造営された。表御殿や藩主の居所である中奥と比べると、その広さが理解できる。

図2-1-5-3 久留米藩芝上屋敷絵図(部分、上部が北)
破線の左下部分が高台の上。屋敷の外、北東(図の右上)方向に赤羽橋がある。
「久留米藩江戸上屋敷図」(久留米市教育委員会所蔵鶴久家資料)に加筆。嘉永2年(1849)頃。


 屋敷地の南西部、全体の三分の一余りの部分(破線の左下)は、比高差約一〇メートルの高台の上にあった。これは台地突端の小丘陵(三田小山)の北東端に当たる。浮世絵に火の見櫓がとりわけ巨大な姿で描かれていたのは、三丈の高さに加えて、それが台地の上に築かれていたからである。
 表御殿奥の大泉水から高台にかけて広い庭園(「山之御庭」)が設けられており、これと新築された住居に圧迫されて、藩士らの長屋は残ったスペースに所狭しと建て並べられていた。先の絵巻の詞書を書いた戸田熊次郎が住んだと思われる御目付長屋は、表門の近くにあった。邸内社水天宮は敷地の北西隅に見えるが、公開日に大勢の群衆が押し寄せたという割には、境内地はごく狭い。