激しい藩内抗争

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 一二代家慶の先代一一代将軍徳川家斉には五五人の子があり、その多くを大名家に嫁がせたり養子に出したりした。迎える側の支出軽減をはかるため、「入輿(じゅよ)」を「引移(ひきうつり)」、「御守殿」を「御住居」と呼び替えるなどしたが、それでも財政難が続く藩側の負担は大きかった。久留米藩が精姫の婚儀と御住居新築のために用意した費用は、金七万七四五五両余におよんでいた。
 久留米藩はもともと表高二一万石に対して内検高(ないけんだか)(実高)二八万石を有する比較的豊かな藩であったが、年貢収納高は一八世紀半ば過ぎに頭打ちとなり、以後は財政難に苦しんだ(鶴岡 一九八一)。藩内では幕末から維新期にかけて約三〇年間にわたって激しい派閥抗争が繰り広げられたが、その発端となったのが、多額の支出を伴う精姫輿入れをめぐる意見対立であった。嘉永三年(一八五〇)六月には、参政村上守太郎が上屋敷の中で同役馬淵貢に斬りかかり、その場で刺殺されるという事件が起こった。水戸学の影響を受けた藩士が天保学派と呼ばれる一派を形成しており、それが村上らの内同志と真木和泉らの外同志に分裂したことも事件の背景にあった。その後、真木の一派も別件で処罰され、事態はさらに混迷を深めた。尊皇攘夷派と佐幕開明派の抗争と評されることもあるが、対立の構造はより複雑であった。久留米藩は、戊辰戦争では遅れて新政府側に付いて参戦したが、明治四年(一八七一)には藩内の尊攘派が二人の公家を擁して政府転覆のクーデターを謀って失敗し、その結果、藩は上屋敷を没収された(久留米藩難事件)。
 目付役を務めた戸田熊次郎は、村上守太郎の刃傷事件の顛末書を作成し、以後の抗争の経過も目の当たりにしてきた。絵巻は勤番藩士の単身生活の退屈さや郷愁をどこかコミカルな調子で描いているが、抗争が激化する前の比較的平和な頃の江戸暮らしを懐かしむ思いが、そこに込められていたとみることもできよう。  (宮崎勝美)