表2-1-6-1 浜松藩上屋敷の変遷
『東京市史稿 市街篇』などをもとに作成
江戸時代中期以降、老中や若年寄の要職に就いた大名には、西丸下や大名小路の役屋敷が与えられた。しかし、江戸幕府の政治機構は、近代的な意味における公と私の関係が未分離で、老中職の実務を担ったのは専任の幕臣ではなく就任した大名の家臣たちであり、役屋敷といっても基本的には通常の上屋敷を移転したものに過ぎなかった。忠邦は、老中職を前後二回務める過程で、上屋敷を表2-1-6-1のように移動させている。表に見られるように、老中就任前の水野家は芝切通(西久保とも)に九〇〇〇坪近い上屋敷(現在の芝公園三丁目)を所持していたが、移り住んだ役屋敷はそれよりかなり狭かった。しかも、老中屋敷には日常的に政務を執り、多数の来訪者に対応するための施設が必要であり、様々な職務や用役に当たる家臣や軽輩の住居も配置しておかなければならなかった。奥向の御殿も一応備えられていたが、忠邦の家族やそれに仕える家臣や女中らは、そこではなく三田札ノ辻にあった下屋敷(天保一五年〈弘化元・一八四四〉に中屋敷に唱替え、現在の芝五丁目)に居住したものとみられる。実際、忠邦の嫡男忠精(ただきよ)(一八三二~一八八四)は、天保三年(一八三二)にその三田屋敷で生まれている。上屋敷が老中役屋敷を兼ねていたため、下屋敷(のち中屋敷)が通常の上屋敷の機能を併せ持つことになったのである。こうしたことは水野家だけでなく、老中を務めた大名に共通した特徴と考えられる。
忠邦は老中在任中、屋敷地の不足を補い、保養の地を得るために、高輪に所持していた三〇〇〇坪の下屋敷(現在の高輪四丁目)を一〇〇~五〇〇坪ずつ切り分けて、六回にわたって相対替(あいたいがえ)を行った(これを切坪(きりつぼ)相対替という。本章二節三項も参照)。それによって、三田屋敷の隣接地を得て拡張したほか、中渋谷村の二万坪をはじめ計四か所にあらたな下屋敷を獲得した。こうした切坪相対替は、屋敷地を増やす方法として江戸中期以降数多く行われたが、しばしばそれは表向きに出すことができない拝領屋敷の売買を隠すための手段ともなっていた。忠邦の相対替の経過にも、それを疑わせる不審な点がある(宮崎 一九八九)。