息子の忠精は成長後にその才を認められ、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行、若年寄、老中の要職を歴任したが、水野家が上屋敷を喪失し、中屋敷を居屋敷とせざるをえない状態は長く続いた。表2-1-6-2は屋敷改作成の「諸向地面取調書」で上屋敷不所持とされている大名四家について、それぞれの事情を書き出したものである。水野家のほかにも、老中失脚後などの処分や日頃の不行状によって上屋敷を没収され、その後も長期にわたって不所持のままとされた大名がいたことがわかる。上屋敷の没収という処分には、特別に重い懲罰的意味があったものと推測される。
表2-1-6-2 上屋敷を所持しない大名
「諸向地面取調書」第1・3冊(国立公文書館所蔵)および各家の家譜(東京大学史料編纂所所蔵)などをもとに作成。安政元年(1854)頃。支藩等で本藩の敷地を借りていたものは除外した。
忠精は寺社奉行在任中の安政六年(一八五九)八月、三田の屋敷(当時一万三〇九坪)を上地(あげち)(収公)され、かつて上屋敷があった芝切通の旧地に移った。面積が五八一四坪余に縮小されたため、翌万延元年(一八六〇)七~九月に元の三田屋敷のうち八五〇〇坪余を添地として差し戻されている。同年一二月には若年寄に栄転したが役屋敷は給付されず、文久二年(一八六二)三月に老中に昇進し、その後三か月たった時点でようやく西丸下に役屋敷を与えられた(芝切通屋敷は返上)。忠邦の処分前の状態に戻ったとはいえないものの、水野家の上屋敷はこの時点でようやく復活したと考えることができる。 (宮崎勝美)