江戸縁辺部の下屋敷

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 高松藩松平家(親藩一二万石)は、寛文四年(一六六四)に江戸城に近い桜田の上屋敷を返上して、当時としては江戸の都市域からはずれた目黒の地に下屋敷を拝領した(現在の白金台五丁目、国立科学博物館附属自然教育園)。明暦の大火の七年後で、他藩も避災のため、その近辺に下屋敷を拝領し始めていた頃のことである(一章一節二項参照)。同藩は、まず三田札ノ辻の下屋敷を上屋敷に振り替え、のち大名小路、ついで小石川門内に上屋敷を移した。
 他藩も同様であるが、明暦の大火ののち郊外に拝領した下屋敷は、希望どおりの面積に及ばない場合が多く、それぞれ自力で地続きの土地を抱屋敷として買い取って、敷地を拡張していった。高松藩が当初拝領した下屋敷は二万坪であったが、その後抱屋敷を買得するなどして、幕末期には六万坪を超える面積となっていた。同藩はこれを目黒屋敷と呼んでいたが、もともとは白金村・今里村および上大崎村の田畑または荒れ地であった。
 表2-1-7-1は、幕末期におけるこの屋敷地の土地種別構成を示したものである。このうち①が寛文四年に与えられた拝領地である。同藩は小石川門内の上屋敷などの敷地を拡張するため、隣接する旗本等の拝領屋敷を譲り受け、その代わりにこの目黒屋敷の敷地を少しずつ切坪して譲渡する相対替を何度も繰り返した。その結果、当初二万坪あった拝領地部分は一万五〇〇〇坪余まで減少している。

表2-1-7-1 高松藩目黒下屋敷の土地種別構成
「諸向地面取調書」第3冊(国立公文書館所蔵)をもとに作成。安政元年(1854)頃。


 ②と③は、拝領屋敷の地続きの田畑を買い取るなどして拡張した抱屋敷である。数度にわたる買得や、小石川など他の場所の拝領地と振り替え(地目変更)を繰り返した結果、合計四万坪を超える面積に達していた。また、この屋敷地は、高輪付近から目黒方面にいたる往来の多い道筋(現在の目黒通り)に面しており、通りの両側は早くから町場化し、正徳三年(一七一三)に年貢支配は幕府代官所、人別支配は町奉行という町並地に繰り入れられて、白金台町という町名に変わっていた。④~⑦の町並屋敷はその一部を買い取ったものである。
 抱屋敷および町並屋敷は年貢を負担する必要があり、毎年の年貢は高松藩がそれぞれの村や町を通じて幕府代官所に納めた。その額は不明であるが、江戸の北部下駒込村の事例では、武家抱屋敷の年貢金は通常の田畑より高額な一反(三〇〇坪)あたり永五〇〇文(金〇・五両)に設定されていた。いま仮にそれをもとにして計算すると、高松藩の抱屋敷・町並屋敷合計約四万五〇〇〇坪の年貢は金七五両前後となる。ただし、武家抱屋敷の年貢金の設定は地域によってまちまちであり、他の場所の抱屋敷と振り替えを行った際にどのように処理されたのかも不明である。