嘉永六年(一八五三)のペリー来航を受けて、福井藩主松平慶永(よしなが)(のち春嶽(しゅんがく)、一八二八~一八九〇)は、外圧に備えるため諸大名の財政負担を軽減し国力を増強する必要があるとして、参勤交代の間隔を延長し、大名妻子の江戸居住強制を解いて、江戸詰人数を減少させることを幕府に献策した。幕府はすぐにはそれに応じなかったが、文久二年(一八六二)閏八月に至り、その趣旨にほぼ沿った内容の改革を布告した。具体的には、参勤交代の間隔を三年に延ばし、御三家や一部の大藩の大名はそのうち一年、その他の大名は一〇〇日間在府するものとし、定府大名は願いにより帰国を許可、大名や嫡子が必要な場合は参府自由、大名の妻子を領国に引き取るのも勝手次第、江戸屋敷の家来はそれを「旅宿・陣屋」と心得て減少に努めよ、という内容であった。これは江戸初期から続いた参勤交代制と大名妻子江戸在府制の大きな転換点であった。
以後、各大名はこれにしたがって、在府期間を短縮し、妻子の多くは翌年にかけて領国に下向した。日向延岡藩内藤家(譜代七万石)の隠居夫人充真院(じゅうしんいん)(一八〇〇~一八八〇)は、文久三年(一八六三)四月、六本木の下屋敷(現在の六本木三・四丁目)を立って延岡に向かった。文才に長け絵心もあった充真院は、道中の様子を挿絵入りの日記に詳しく書き記している。生まれ育った江戸を離れる時は名残惜しさに涙に暮れたものの、その後は旅を楽しんだ様子が文面からうかがえる。大坂までは陸路を駕籠で一八日、大坂屋敷にしばらく滞在して周辺を見物したのち御座船に乗り、途中讃岐の金刀比羅宮に参拝するなどしながら海路二四日かけ、船酔いに苦しみながら延岡に到着した。江戸出発から数えて五五日間の大旅行であった。
大名家族の国元移住にともなって、江戸詰の藩士や奉公人らも多数帰国した。本節一項に掲げた表2-1-1-3で宇和島藩江戸屋敷の人数変化を見ると、文久二年(一八六二)から翌年までの一年で一一一九人から七七七人にまで激減し、その後もさらに減少を続けている。江戸を離れた者の中には、定府の藩士らも含まれていた。その中には数代にわたって江戸に住み続け、国元を知らない者も大勢いたはずである。久留米藩では郊外の荒地を開墾して、約一〇〇戸の定府家臣が移住した。その地はのちに江戸屋敷と呼ばれるようになり、それは今もなお久留米市の町名として名残をとどめている。
江戸の大名屋敷では、建家を解体するなど規模の縮小が進められた。江戸で雇傭された中間・小者などの奉公人は失職し、それを仲介していた人宿や屋敷出入の商人らは打撃を受けて、町方の衰微を招く一因となった(金行 二〇〇三)。
参勤緩和策が目的とした国力増強の実は上がらず、幕府は長州戦争開戦後の元治元年(一八六四)九月に制度を改革以前に戻す布達を発したが、異議をとなえる上書が相次いだ。布達に応じてその年のうちに妻子を江戸に帰住させたのは、親藩や譜代藩など全体の一割程度に過ぎなかった。譜代の延岡藩内藤家は少し遅れてそれにしたがい、充真院らは翌慶応元年(一八六五)五月に再び江戸の六本木下屋敷に戻った。