薩摩藩邸焼討事件

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 大名屋敷をめぐるもう一つの事件は、慶応三年(一八六七)一二月に起きた薩摩藩邸焼討事件である。一五代将軍徳川慶喜は同年一〇月に大政奉還を奏上し、列侯会議による政権存続をはかろうとしたが、武力倒幕をめざす薩摩藩は、その直前に藩士益満休之助(ますみつきゅうのすけ)(一八四一~一八六八)と伊牟田尚平(いむたしょうへい)(一八三二~一八六九、ヒュースケン殺害の実行犯)を「義挙」のため江戸に送り出していた。その後に起こった騒乱事件は、彼らによって画策されたとみられている。芝の薩摩藩屋敷(現在の芝二・三丁目)には約五〇〇人の浪士が集められ、下野出流山(いずるさん)挙兵や相模荻野山中陣屋襲撃などの事件を引き起こしたほか、江戸では用盗と称して、富裕な商人から数万両におよぶ金品を強奪したり、殺傷事件を起こしたりした。犯行を終えた浪人らは姿を隠すこともなく、薩摩屋敷や近くにあった支藩佐土原屋敷に逃げ込んだ。暴走を危惧した京都の薩摩藩首脳は、軽挙を慎むよう指示を送ったが、効果はなかった。江戸市中では不安が高まり、一二月二二日に江戸城西丸で起きた火事も、島津家出身の天璋院(てんしょういん)(一八三六~一八八三、 一三代将軍徳川家定の正室)を連れ出すための放火と噂された。
 京都では微妙な情勢が続いていたため、薩摩藩に配慮して浪人らの検挙はただちに行われなかったが、一二月二三日に三田の庄内藩屯所に銃弾が撃ち込まれると、ついに捕縛のための兵を動員することが決定された。同月二五日、庄内藩をはじめ、出羽松山・上山・鯖江・前橋・西尾各藩の兵が薩摩・佐土原両屋敷を包囲して賊徒の引き渡しを求め、薩摩藩側がそれに応じなかったため、大砲や鉄砲による攻撃が開始された。浪人らがこれに応戦し、突入後は斬り合いになって双方に死傷者が出た。その後、浪人らは南西寄りの塀を乗り越えて脱出し、追撃を防ぐため三田から品川までの町々に放火しながら逃走した。そのうちの一部は、品川沖に停泊していた薩摩船翔鳳丸に乗って上方に逃れ去った。
 この襲撃に加わった元上山藩士の堤和保(つつみかずやす)は、後年回顧録を残している(堤 一八九八)。その中で一つ注目されるのは、島津家の家屋は元は壮大なものであったが、夫人の国元下向後は取りこわされて、わずかにその形を残すのみになっていたという記述である。実は襲撃事件が起きた時、藩邸に残っていたのは表長屋とわずかな内長屋等だけで、御殿など主要な建家はすでになくなっていたと推測されるのである。
 薩摩藩は元々幸橋門内(現在の東京都千代田区日比谷)に上屋敷を与えられていたが、早くから芝の中屋敷を藩主居屋敷とし、藩内ではこれを上屋敷と呼んでいた。芝屋敷は幕末まで拡張を続けたが、安政大地震(一八五五)の後は渋谷に新たに得た下屋敷に拠点を移した。そして文久元年(一八六一)一二月、藩士堀小太郎は留守邸となった芝屋敷に故意に放火して、ほぼ全焼となる被害を出した。これは藩主島津茂久(もちひさ)(のち忠義(ただよし))の出府を遅らせるために取られた「奇策」であった。幕府は参勤を猶予した上、天璋院との間柄を重視して再建費用二万両を貸与するなどした。しかし、その翌年、藩主の父久光(ひさみつ)が出府した際は、芝ではなく高輪の下屋敷に滞在しており、火事の時に芝から避難して来た姫(茂久の妹)たちもまだ高輪にとどまっていた。幕府は、久光の在府中に火事が自焼行為であったことを知ってそれを責めたが、処分を藩側に任せ堀を帰国させただけですませ、それ以上の処罰はしなかった。その後翌年には参勤緩和令が出されて藩主の家族らは鹿児島に下向し、江戸屋敷は縮小に向かった。こうした経過をみると、芝屋敷はついに本格的な再建がなされないまま終わったと考えざるをえない。
 しかし、たとえ主要な殿舎を失って内部が空虚になっていたとしても、またそれが賊徒の巣窟と化していたとしても、大名の居屋敷に攻撃をしかけ、焼いてしまったことの持つ意味は大きかった。長州藩邸没収の時とは違って、薩摩藩との間で戦争が始まっていたわけではない。事件の報が上方にもたらされると、主戦派の会津・桑名両藩などは江戸で戦端が開かれたと勢いづき、薩摩藩側は憤激して、あるいはこれを好機ととらえて開戦を決意した。この事件がまさに鳥羽・伏見の戦いの直接的な契機となったのである。
 
(宮崎勝美)