図2-1-コラム-1 フェリーチェ・ベアト撮影「愛宕山から見た江戸のパノラマ」
東京都写真美術館所蔵
上に掲げたのは、イギリス人写真家フェリーチェ・ベアト(一八三二~一九〇九)が愛宕山の上からその東側を撮影したパノラマ写真である。撮影時期は文久三年(一八六三)七月頃と推定されている(金行 二〇一八)。眼下には多くの大名屋敷や旗本屋敷が所狭しと建ち並び、遠くには江戸前の海、左手奥の方には築地本願寺の大屋根なども写っている。
正面直下の大きな屋敷は越後長岡藩牧野家の中屋敷、その右側は大和小泉藩片桐家の上屋敷、両家の奥は伊予松山藩松平家の上屋敷である。牧野家中屋敷の左手は小出家ほかの旗本屋敷であった。牧野家は譜代の名家で、歴代藩主はたびたび幕府の要職を務めた。写真の撮影時期が文久三年七月であるならば、当時の藩主牧野忠恭(ただゆき)はその前月に京都所司代を辞して江戸に戻り、二か月後の九月には老中に任ぜられる頃である。幕閣に入る家の常で、牧野家の上屋敷は役職に就くたびに移動したが、中屋敷は江戸の初期以来ずっと変わらずこの地にあった。
しかしこうした写真を見てみると、山上からは屋敷の内部まではっきり見通せたことに気がつく。幕末期に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウ(一八四三~一九二九)も、江戸の武家屋敷は二階建ての長屋に囲われていて外からは中の母屋が見えないが、愛宕山の頂上からはその内部を望むことができ、そのため望遠鏡の使用が衆人に厳しく禁止されていたと回顧録に記している。
武家屋敷の景観でもう一つ印象的なのは、どこまでも続く甍の波、瓦屋根であるが、これは江戸時代の全期間を通じた特徴ではない。一六三〇年代頃の江戸を描いたとされる「江戸図屛風」(一章一節一項参照)の大名屋敷を見ると、外周の表長屋や土蔵などは瓦葺(かわらぶき)であるものの、御殿部分はより格式の高い檜皮葺(ひわだぶき)や杮(こけら)葺(ぶき)として描かれている。その後明暦の大火(一六五七)の際に、瓦の下敷きになった者が多かったため、幕府は町方に対して瓦葺を禁じ、さらに享保五年(一七二〇)になると今度は逆に延焼防止の目的でそれを強制しようとした。大名・旗本の側の対応はまちまちで、加賀藩のような大藩の屋敷でも、その内側にはかなり遅い時期まで板葺の長屋が残っており、場末の旗本・御家人屋敷などでは蛎殻葺(かきがらぶき)なども珍しくなかったが、江戸中期に現在の瓦と似た形式で本瓦(丸瓦と平瓦の組み合わせ)より軽量・安価な桟瓦(さんがわら)が考案されると、荷重過多の心配や落下・倒壊による危険が軽減されたため、広く普及していった。全国各地で独特の様式の瓦が生産され、大名屋敷では自領の産業振興のため国元から瓦を取り寄せることも多かった。例えば、石見津和野藩の屋敷には赤褐色の石州瓦、愛宕山から見える松山藩上屋敷にはいぶし銀の光沢を持つ伊予国産の瓦が葺かれていたという。同じ瓦屋根でも、その実際の色合いは屋敷によって違って見えていたのかもしれない。 (宮崎勝美)