屋敷地と所持者の変遷

232 ~ 235 / 499ページ
 図2-3-2-1①・②(以下、図番号省略、丸番号のみ)とも屋敷地は五筆で、内訳は『寛永図』(①)は旗本三筆と大名一筆(下屋敷)、空白一筆、「寛永全図」(②)では空白が旗本屋敷地となり、旗本四筆と大名一筆(下屋敷)となるが、延宝年中(一六七三~一六八一)の「沿革図書」(③)では全て旗本屋敷地となり、以後所持者の交代はあるが、しばらくはそのまま推移する。
 一〇〇年以上を経た天保元年(一八三〇)の「沿革図書」(⑤)では、筆数は同じ五筆だが、その間に分・合筆があり、地割りに大きな変化を来した。まず寛延二年(一七四九)、西端の旗本宇津家屋敷(④中「宇津出雲守」)東部が上地(あげち)されて三河西大平藩大岡家に下屋敷として与えられて分筆、これが安永(あんえい)三年(一七七四)に相対替で大岡家より旗本牧野家に譲渡された(⑤中「牧野播磨守」)。次に明和九年(安永元・一七七二)、東端の旗本桑山家屋敷(④中「桑山十左衛門」)北部が上地されて西接の旗本本堂家屋敷に添地(⑤中「本堂内蔵助」)、そして中央北側旗本仁賀保(にかほ)家屋敷(④中「仁賀保小十郎」)は享保一二年(一七二七)に相対替で旗本大嶋家に譲渡されていたが、これとその南接の旗本蜂屋家屋敷(④中「蜂屋小右衛門」)を寛政四年(一七九二)、相対替で備前岡山藩池田(松平)家が獲得して合筆した(⑤中「松平伊予守」)。
 そして文久二年(一八六二)の「沿革図書」(⑥)では四筆となる。西端の旗本宇津家屋敷は寛政一〇年(一七九八)、相対替で長門清末藩毛利家が入手して上屋敷としていたが(⑤中「毛利讃岐守」)、同家が嘉永元年(一八四八)に同じく相対替で東隣の旗本牧野家屋敷を得て合筆したためである。なお天保元年と文久二年の「沿革図書」(⑤・⑥)を比較すると、牧野家屋敷は東隣の池田(松平)家屋敷に合筆されたように描かれているが、これは誤りである。
 また文久二年の「沿革図書」(⑥)の南東角は「戸塚静海」、すなわち幕府奥医師戸塚家屋敷となっているが、この地は元来旗本桑山家屋敷だったものが、戸塚家に至るまでにいずれも相対替で、まず文化七年(一八一〇)から豊後岡藩中川家中屋敷、文政一二年(一八二九)には遠江(とおとうみ)横須賀藩西尾家中屋敷(⑤中「西尾隠岐守」)、天保一二年(一八四一)には近江水口藩加藤家中屋敷と、次々に大名家が中屋敷として所持し、そして文久元年(一八六一)、相対替で加藤家から戸塚家へわたった。
 このように、〔芝口〕は元来はおおむねを旗本屋敷地が占めていたが、寛政期以降、大名家がそれらを相対替で積極的に獲得するようになってその比率は逆転し、幕末までには過半が大名屋敷地に占められるようになったのである。