交代寄合本堂家屋敷

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 〔芝口〕のなかで、旗本本堂家屋敷は『寛永図』の時代から幕末、さらに明治時代まで一貫して同じ場所に所在し続けた。こうした幕臣屋敷の事例は少ない。
 本堂家は常陸新治(にいはり)郡志筑(しづく)八〇〇〇石余を領した交代寄合である(交代寄合については本章二節一項「旗本・御家人の定義と概要」参照)。初代茂親(しげちか)から栄親(よしちか)、玄親(はるちか)、伊親(これちか)、苗親(なりちか)、豊親(とよちか)、親房(ちかふさ)、親庸(ちかのり)、親道(ちかみち)、親久(ちかひさ)と一〇代にわたりこの「愛宕下屋敷」を居屋敷としてきた。拝領当座は「愛宕下福屋敷」と評判されるほど裕福だったという。そのあり方は不詳だが、三代玄親のとき、元禄三~六年(一六九〇~一六九三)の間に、表門の北側から南側への付け替えが江戸図類の描写からうかがわれ、発掘調査でもこれに起因した可能性がある土地利用変更の痕跡が検出された(本章五節二項「上級旗本の居住空間・交代寄合本堂家屋敷跡」参照)。本堂家は玄親のとき交代寄合となり、元禄三年には世子(せいし)伊親も誕生して、そうした契機に屋敷が大きく造替(ぞうたい)(作り替え)されたことが考えられる。
 そして前述のように、七代親房は大番頭となって下屋敷を得(本章二節三項「下屋敷」参照)、次いで西丸側役に転じて愛宕下屋敷に添地も拝領した。親房は本堂家歴代で唯一幕府役職に就いたが、これは実父が上野(こうずけ)安中藩主で老中を務めた板倉勝清であり、その意向とみられる。親房の養子入りが本堂家屋敷に画期をもたらしたのである。しかし親房が本堂家の財政と家政に混乱を来したことも事実で、これは天保六年(一八三五)までその再建にあたった、本堂家年寄役の横手義忠による記録に詳しい(茨城県立歴史館収集史料「横手家文書」のうち「古事伝聞書」 *・「義忠一代記」 *)。それによれば、その間愛宕下屋敷は寛政六年(一七九四)と文化三年(一八〇六)に焼失、財政難からいずれも簡略化した格式で再建せざるを得ず、文政八年(一八二五)になって当主らの住居向き惣普請(そうぶしん)が行われ、ようやく本堂家本来の格式に応じて造替を見ることになり、義忠が没する天保八年(一八三七)には財政も健全化して、金五〇〇〇両の蓄えもできた。
 こうした未曾有の危機に直面しながらも、本堂家は愛宕下屋敷を手放すことを一切せず保持し続けたのである。そして一〇代親久のとき、慶応四年(明治元・一八六八)には万石以上の大名となり、明治二年(一八六九)から志筑藩知事、同四年(一八七一)からは同県知事と歴任して、愛宕下屋敷をそれらの官邸に定めた。そして県知事を免じられたのちも私邸として所持して、居住し続けた(渋谷 二〇一一)。  (渋谷葉子)