屋敷地と所持者の変遷

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 図2-3-3-1①・②(以下、図番号省略、丸番号のみ)では全一四筆、『寛永図』(①)では大名二筆、旗本一二筆で、うち薬師小路側西から二筆目備中足守(あしもり)藩木下家屋敷(①中「木下あハち」)は、のち分家の旗本木下家屋敷となり(②中「木下左近」)、「寛永全図」(②)では大名一筆、旗本一三筆となった。もう一つの大名屋敷は愛宕下大名小路に面した備前岡山藩(のち因幡鳥取藩)池田(松平)家とその分家の所持であった(①・②中「松平右京」・「松平石見守」)。延宝年中の「沿革図書」(③)で一三筆となったのは、神保小路側東から二筆目の旗本河田家屋敷(①中「河田助兵」)が上地となって、寛文四年(一六六四)にこれを池田家が拝領して合筆したためである。そしてこれが寛文九年(一六六九)に相対替で池田家から陸奥岩沼藩(のち一関藩)田村家へ譲渡され(③中「田村隠岐守」)、以後同家が上屋敷として幕末まで所持した。延宝年中の「沿革図書」(③)のこれ以外の一二筆は旗本屋敷地で、以後所持者の交代はあるが、しばらくそのまま推移する。
 そして享保三年(一七一八)の「沿革図書」(⑤)で全一三筆、うち旗本所持は一一筆となる。これは享保二年(一七一七)に、神保小路側西から二筆目を相対替により肥後宇土(うと)藩細川家が中屋敷として得たためで(⑤中「細川山城守」)、以後同家が幕末まで所持した。寛政二年(一七九〇)の「沿革図書」(⑦)では全一四筆、うち旗本所持は一二筆となる。これは安永五年(一七七六)、神保小路側中央の旗本赤井家屋敷(⑥中「赤井頼母」)の東部が、切坪相対替で旗本小川家に分筆されたためである(⑦中「小川長左衛門」)。さらに文政一一年(一八二八)の「沿革図書」(⑧)で全一三筆、うち旗本所持は一〇筆となる。この理由は、まず享和(きょうわ)二年(一八〇二)の旗本赤井家・同松平家・同土岐(とき)家による三方相対替で神保小路側西から四・五筆目(⑦中「松平石見守(いわみのかみ)」・「赤井頼母(たのも)」)が合筆されて松平家屋敷となったためで(⑧中「松平登之助」)、またその南西角部は薬師小路側西から二筆目の土岐家屋敷に合筆された(⑧中「土岐信濃守」)。もう一つは薬師小路側東から三筆目が、旗本福嶋家屋敷(⑦中「福嶋左兵衛」)から遠江掛川藩太田家の中屋敷に転換したためであった(⑧中「太田摂津守」)。
 文久二年の「沿革図書」(⑩)では、全一四筆、うち旗本所持は一二筆となる。これは、まず薬師小路側西端の旗本跡部(あとべ)家屋敷(⑨中「跡部大膳」)が当主跡部良弼(よしすけ)の町奉行就任により役屋敷へ移ったため上地となり、うち南東角の一部を除いて弘化二年(一八四五)、旗本小出家へ下賜され(⑩中「小出助四郎」)、残った南東角部も翌三年(一八四六)に旗本林家に下賜されて分筆したこと(⑩中「林伊太郎」)、もう一つは、前述の掛川藩太田家中屋敷が旗本堀田家の屋敷地に転換したためであった(⑩中「堀田益吉」)。

図2-3-3-1 絵図に見る〔愛宕下〕
①国立国会図書館所蔵 ②臼杵市教育委員会所蔵
③~⑩幕府普請奉行編『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書』9(原書房、1986)から転載(いずれも部分)


 以上から、〔愛宕下〕は、愛宕下大名小路に面した屋敷地は当初より一貫して大名屋敷地として変遷したが、それ以外は元来旗本屋敷地で、一部大名屋敷地に転換したところはあるものの、大部分は旗本屋敷地として推移しており、当初の土地利用のあり方が幕末までおおむね保持されたということである。加えて屋敷地所持者の交代が少なく、推移が安定的であった点も特徴といえる。