下って宝暦(ほうれき)九年(一七五九)の「沿革図書」(④)では全一二筆となる。これは三斎小路側東端が南・北に分筆して、旗本遠山家・同伊吹家屋敷となったためである(④中「遠山金四郎」・「伊吹又三郎」)。またこの段階までに、前述の鎧小路側東端片桐家屋敷は再び旗本屋敷地となり(④中「井上伊織」)、三斎小路側東から二筆目を宝永五年(一七〇八)、相対替で美濃加納藩(のち信濃松本藩)戸田(松平)家が中屋敷として得たことから、大名一筆は変わらず、ほか一一筆が旗本屋敷地であった。
安永五・寛政六年(一七七六・一七九四)の「沿革図書」(⑤)では全一三筆、うち一二筆が旗本所持となる。これは三斎小路側西端、旗本富永家屋敷(④中「富永隼人」)の東部が明和五年(一七六八)、切坪相対替で分筆されて旗本青木家に譲渡されたからである(⑤中「富永祐三郎」・「青木三郎左衛門」)。その後、所持者の交代もなくしばらく推移するが、文政七年(一八二四)の「沿革図書」(⑦)では全一三筆で、内訳は大名一筆、旗本一一筆と御家人一筆となる。これは文化一三年(一八一六)に三斎小路側東端南側(⑥中「伊吹又三郎」)が、相対替で旗本伊吹家から御家人間宮家に譲渡されたためである(⑦中「間宮伊織」)。また享和二年(一八〇二)と文政七年(一八二四)の「沿革図書」(⑥・⑦)では屋敷割りの変化が顕著だが、これは文政三年(一八二〇)の大名戸田(松平)家と旗本山岡家・同飯高家による三方相対替の結果で、三斎小路側東から二筆目の戸田(松平)家中屋敷西部が分筆されて旗本飯高家に譲渡され(⑦中「飯高小膳次」)、さらに鎧小路側東から三筆目の旗本山岡家屋敷(⑥中「山岡伝右衛門」)を戸田家が獲得して合筆したためである。
天保元年(一八三〇)の「沿革図書」(⑨)では全一二筆で大名一筆、旗本一一筆となる。これは文政一二年(一八二九)、三斎小路側東端北・南の旗本遠山家・御家人間宮家屋敷(⑧中「遠山左衛門尉」・「間宮伊織」)が、相対替で旗本曲淵家へ渡り、合筆されたためである(⑨中「曲淵甲斐守」)。
文久二年(一八六二)の「沿革図書」(⑪)では全一三筆で大名二筆、旗本一一筆となる。これは、まず嘉永元~二年(一八四八~一八四九)の間に三斎小路側西から二筆目の旗本山本家屋敷(⑩中「山本新十郎」)の西部が切坪相対替で旗本神保家に渡ったこと(⑪中「神保金之丞」)、そして三斎小路側東端の旗本曲淵家屋敷(⑩中「曲淵甲斐守」)が嘉永三年(一八五〇)以降、信濃松代藩真田家の中屋敷となったためである(⑪中「真田信濃守」)。
図2-3-4-1 絵図に見る〔西久保〕
①国立国会図書館所蔵 ②臼杵市教育委員会所蔵
③~⑪幕府普請奉行編『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書』8(原書房、1986)から転載(いずれも部分)
以上から〔西久保〕は、元来が旗本屋敷地であったが、特に地区東半の多くが次第に相対替によって大名の屋敷地に占められるようになった。全体の筆数は当初から幕末まで一一~一三筆で、一見推移は安定的なように思われるが、その内実は分筆と合筆が少なくなく、当初と幕末とでは敷地割りのあり方に大きな変化を来した。こうした一方、屋敷地所持者は交代が比較的少なく、安定的に推移した点は特徴といえる。 (渋谷葉子)