〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕に見た旗本屋敷地

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 これまで見てきたように、〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕とも当初より旗本の居住域として設定されたことがうかがえるが、その後の屋敷地と所持者の変遷は、それぞれが異なる様相で幕末に至った。
 表2-3-5-1「〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕各屋敷地所持者高・坪数一覧」から、さらに江戸時代初めと幕末の所持者と屋敷地のあり方を見てみよう。これは『寛永図』と「諸向地面取調書」(本章二節三項「居住の実態」参照、以下「取調書」)に記載された〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕の屋敷地所持者の家禄、および所持した屋敷地の坪数を整理して、各々の家禄と坪数の平均値を、全体と旗本について算出したものである。

表2-3-5-1 〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕各屋敷地所持者高・坪数一覧

上は姶良火山灰降灰後に形成されたブロック(約2万年前)、下は降灰前に形成されたブロック(約3万年前以前)

渋谷葉子「愛宕下における武家地の諸相-芝口・愛宕下・西久保-」東京都埋蔵文化財センター編『港区 愛宕下遺跡Ⅲ』第1分冊(東京都埋蔵文化財センター調査報告第286集、2014)、表5「地区別屋敷地所有者高・坪数一覧」をもとに作成
1俵=1石、1人扶持=5俵に換算、小数点以下四捨五入
「-」は履歴・高等不詳者、これについては坪数も不詳扱いとした
平均=所持者高合計/同人数、旗本平均=所持者のうち旗本高合計/同人数
大名家は網掛けとした
 まず『寛永図』の段階から、旗本の家禄に注目すると各区分でおおむね同等の家禄の旗本がまとまって屋敷地を所持しているもようが浮き彫りとなる。また家禄平均で見ると、〔芝口〕四二五〇石、〔愛宕下〕一四一四石、〔西久保〕五七七石と明らかな差が認められ、坪数も順に二〇二六坪、八五五坪、六一七坪と家禄の高・低に広・狭が呼応している。つまり同じ愛宕下地域のうちながら、南・北に走る愛宕下大名小路(広小路通)と愛宕下通を隔てて、屋敷地を所持する旗本の階層が異なったのである。
 そして二二〇年以上を経た幕末、安政三年ころの「取調書」の段階においても、三区分の旗本の屋敷地所持者の平均家禄の差と坪数の呼応状況は、『寛永図』時点と基本的には変わっていない。しかし旗本屋敷地の坪数平均は、『寛永図』時点に比すと、〔芝口〕は二一一九坪とほぼ横這いながら、〔愛宕下〕と〔西久保〕ではそれぞれ八三九坪と四五一坪と、いずれも下回っている。この両区分では旗本の家禄平均は上がっており、にも関わらず各屋敷地が狭くなったということで、それは相対替による分・合筆や大名屋敷地の増加のためと考えられる。