居住者の実態

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 このように、特に〔西久保〕の旗本は、居屋敷の一部や敷地すべてを他者に貸与した者が多かった。どのような者へ貸与されたのか、表2-3-5-2の備考と図2-3-5-1「切絵図に見る幕末の〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕」からみてみよう。なお同図は尾張屋板『増補改正芝口南西久保愛宕下之図』の〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕部分で、万延二年(文久元・一八六一)の刊記だが、屋敷地記載の名前から、文久三年(一八六三)以降の改訂板とみて間違いない。切絵図は現代の住宅地図のように実地調査に基づいており、したがって記載名が実際の居住者となる。

図2-3-5-1 切絵図に見る幕末の〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕
『増補改正芝口南西久保愛宕下之図』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵(部分)


 これらの図表により〔西久保〕の居住者の実態について順に整理すると、富永縫殿(家禄四〇〇石)は図2-3-5-1から、居屋敷の一部を畑寿命院と宇津木弘へ貸地したようで、畑は代々幕府寄合医師、宇津木の身分は不明である。神保金之丞(家禄一一〇〇石)は地守附置で利用は不詳、山本新十郎(家禄一〇〇俵)は全てを幕府御用絵師の狩野探龍(たんりゅう)に貸地、山高孝之助(信徳、家禄一八〇〇石)は御家人生田弥五郎(家禄不明)へ居屋敷内の長屋を貸与、堀左京(家禄一五〇〇石)は旗本富永栄次郎(家禄二五〇俵)へ居屋敷内八〇坪を貸地、飯高織部(家禄三〇〇俵)は地守を置かず全てを東隣の松本藩戸田家(高六万石)へ預け、戸田家が囲い込んで利用していた。戸田金三郎(家禄五四九石余)は居屋敷の一部を山木検校(けんぎょう)(太賀一)へ貸地した。この人物は箏曲(そうきょく)山田流山木家二代家元で、一派は山木が芝愛宕下に住んだことから「芝派」とも呼ばれた(『日本国語大辞典』)。
 このように〔西久保〕の旗本屋敷地は武家以外への貸与が多く、居住者の実態はこうしたものであった。
 またすでに指摘したように、〔愛宕下〕では林家屋敷を蘭方医の石井宗謙が借地した可能性があり、〔芝口〕では奥医師戸塚静海が相対替で屋敷地を獲得した。これら武家以外の人びとが、居住する地として選ぶような土地柄だったということが、〔芝口〕〔愛宕下〕〔西久保〕の旗本屋敷地のもう一つの特性だったとも言えそうである。  (渋谷葉子)