赤坂地域の武家屋敷

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 赤坂地域は江戸城外堀の西側に位置していて、北に四谷地域、南に麻布地域、西に青山地域、東南に西久保地域が隣接している。なかでもとりわけ麻布地域と重複することが多く、史料上の表記においても、「麻布」とされる場合もしばしばみられる。そもそもこの地域は戦国時代までは武蔵国貝塚領(赤坂庄)人継村(後、一ツ木村と称する)と称していて、古来より奥州街道沿いの人馬継ぎ立ての地であり、上下一ツ木村に分かれていた。赤根山(元赤坂二丁目)を中心に畑の広がる風景が大きく変わったのが天正一八年(一五九〇)の徳川家康入国以降で、入国後間もない頃にこの地は伊賀者一四〇人に与えられた。当初は百姓地ばかりであったと思われるが、以後しだいに町屋が建てられていき、武家屋敷も増えていった。
 この地域に画期が訪れたのが、寛永期である。すなわち、幕府は寛永一三年(一六三六)に大名一二〇家を動員する大規模な外郭工事を行い、江戸城総構(そうがまえ)を完成させたが、このときに最後まで課題として残されていた牛込門-市谷門-赤坂門の外堀が完成している。この頃まで、赤坂門の外側は外堀開削工事の際に生じる土砂を集積する土置場だったが、寛永一四~一五年(一六三七~一六三八)の島原・天草一揆(いわゆる「島原の乱」)の際に伝馬役を果たした功績により、南伝馬町の高野新右衛門・小宮善右衛門・吉沢主計が褒美としてこの地を与えられた。これが赤坂表伝馬町一~二丁目、および同裏伝馬町一~三丁目の五か町で、これ以後外堀周辺に町人地が形成されていった。
 また、赤坂には寺町があるなど寺院が多いが、寛永二年(一六二五)に円通寺が創建し、同一二年(一六三五)に神保町から道教寺(どうきょうじ)が、同一九年(一六四二)に種徳寺(しゅとくじ)が麴町一〇丁目から移転するなど、寛永期(一六二四~一六四四)以降一七世紀末にかけて寺院の創建や移転が集中しているのも特徴である。
 これに対して、外堀沿い以外の地域は、一七世紀後半には大名・旗本の拝領屋敷や御家人の組屋敷が多く、これらが混在する地域となっていった。このうち大名屋敷について、幕末の切絵図を見ると、北側に紀州徳川家中屋敷が広大な面積を占めているほか、丹波篠山(ささやま)藩青山家中屋敷や三河西大平藩大岡家下屋敷などが置かれている。また中央部分には広島藩浅野家中屋敷、福岡藩黒田家中屋敷、徳山藩毛利家上屋敷などが、南側には大垣藩戸田家上屋敷や松代藩真田家下屋敷などが配置されているのである(表2-4-1-1)。

図2-4-1-1 「江戸麻布御殿表絵図」*
九州歴史資料館所蔵


 赤坂地域の大名屋敷については、上屋敷以外にも中屋敷や下屋敷が混在しているのが特徴で、寛永期以降にこの地に屋敷を拝領した場合が多い。屋敷の規模は紀州藩中屋敷が突出しているが、一万坪に満たない場合が多く、浅野家、黒田家の中屋敷と、長州藩毛利家下屋敷が比較的目立っている。紀州藩中屋敷については本章一節二項に述べられているので、本項では以下黒田家中屋敷と浅野家中屋敷についてみてみたい。