黒田家中屋敷

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 福岡藩黒田家の中屋敷がこの地に置かれた年代は定かではないが、正保年間(一六四四~一六四八)以降の江戸図には描かれており、元禄一七年(一七〇四)二月には一部が上地(あげち)となっている。幕末期の黒田家は、霞ケ関の上屋敷二一一六〇坪の他に、赤坂溜池前の中屋敷一九三九七坪四合、他に下屋敷が白金今里村(現在の白金二・五・六丁目、白金台一~五丁目ほか)に三四一七坪、渋谷に九一七二坪、深川清住町(現在の東京都江東区清澄)に二七五三坪余を持っていた。なお当時の藩の史料では、中屋敷は図2-4-1-1のように「麻布御殿」や「麻布御屋敷」と表記されることが多い。

表2-4-1-1 幕末期赤坂地域の大名屋敷
「今井谷六本木赤坂絵図」(嘉永3年)、「江戸藩邸沿革他」(『東京市史稿 市街篇』49)をもとに作成

表2-4-1-2 赤坂周辺火災年表①
『東京市史稿』、吉原健一郎「江戸災害年表」(『江戸町人の研究』五)などをもとに作成


 福岡藩の場合、中屋敷は一般の大名と同様に嫡男が居住する場合が多く、さらに上屋敷が焼失した場合には建て替えるまでの間の代替機能として使用された。同藩では明暦三年(一六五七)正月の大火(以下、火災については表2-4-1-2も参照)の際に上屋敷が焼失したため、藩主光之(みつゆき)らは中屋敷に移ったが、翌年正月に中屋敷も類焼したため、中屋敷の仮御殿にしばらく居住していた。上屋敷が完成したのは寛文四年(一六六四)のことで、同八年に再度上屋敷が焼失すると、延宝二年(一六七四)まで中屋敷がこれに代わる存在となっていた。その後、中屋敷は享保一六年(一七三一)三月一三日に長屋一軒を残してことごとく焼失し、翌月一五日に上屋敷が焼失した際には、中屋敷に仮御殿を建て、元文二年(一七三七)までこの状態が続いたという(西日本文化協会編 一九九八)。
 このように、上屋敷が焼失した際に、中屋敷は重要な代替機能を果たしていたのである。これは双方の屋敷が比較的近かったことも大きく、中屋敷まで焼失した場合にもここに仮御殿が設けられているほどだった。また、福岡藩では隠居所として中屋敷を使用することはせず、前藩主は上屋敷の御殿上段の一室に居住し、中屋敷はもっぱら歴代嫡男の居所として利用されていたようである。
 明和九年(一七七二)二月の「目黒行人坂(ぎょうにんざか)の大火」(「明和の大火」)(一章三節一項参照)では長屋が少々類焼し、文化八年(一八一一)二月一一日の市谷念仏坂より出火した際には長屋の一部が類焼している。藩士の伊丹家に伝来した史料によれば、文政一二年(一八二九)三月二一日に神田佐久間町二丁目(現在の東京都千代田区神田佐久間町、神田佐久間河岸)の材木小屋より出火した、いわゆる「己丑(きちゅう)の大火」では、中屋敷は類焼しなかったが、近くの広島藩浅野家中屋敷の表長屋が類焼してほどなく鎮火したものの、「御屋敷大騒動仕候」と述べている。また、同年四月六日にも麻布永坂から出火し、このときは飛び火によって中屋敷表門周辺の長屋が類焼したが、家臣や町火消の懸命な消火活動によって早々に鎮火し、屋敷脇の辻番所が一か所焼失しただけだったという(「文政十二丑三月廿一日江戸大火一件書状并書付類之写」 * 福岡市総合図書館所蔵)。また、嘉永三年(一八五〇)二月五日に麴町五丁目から出火した大火では上屋敷が類焼しており、その後しばらくは中屋敷がその代替として使用されたと考えられる。
 中屋敷の絵図については近世後期のものが残っており、①「江戸麻布御殿表絵図」 * (図2-4-1-1)、②「黒田藩江戸藩屋敷図」(図2-4-1-2)、③文政一二年四月六日被災絵図 * (図2-4-1-3)の三点が確認できる。いずれも中屋敷全体を示したものではなく、御殿部分とその周辺が描かれている。それによれば、①は年代不詳ながら福岡藩の大工頭のもと、大工棟梁を務めた林正矩(はやしまさのり)が書き写したものである。門をくぐって石畳を進み、式台を上がると玄関・使者の間などがあり、大廊下を通ると右手に「取合之間」「御次(之間)」「御書院」、左手に「御家老」「御用勤」「御右筆(ゆうひつ)」「一門様付詰所」「溜り間」「御休所」「御稽古所」「御舞台」などがみえる。そしてさらに奥に進むと、「御居間」「御次」「御納戸」などがみえる。これは中屋敷の表の空間(二章一節一項参照)を主に記載していることがわかる。また、②は奥の空間まで記載されているが、①とは表の空間の間取りもかなり異なっている。絵図左側の隣家に「水野日向守殿堀」の記述がみえることから、御殿は中屋敷東北部に隣接する下総結城藩水野家の上屋敷に比較的近いところにあったことがわかる。しかし、水野家では代々当主の受領名が日向守であることから、これをもとに年代を特定することは困難と言わざるをえない。絵図の右側上部には「表御殿御納戸玄関」「表御殿御湯殿」などと書かれていることから、奥御殿部分も含めて描いた絵図であることがわかる。ここには左側に長局(ながつぼね)が記載され、奥専用の門が二か所並んで描かれているのが特徴である。

図2-4-1-2 「黒田藩江戸藩屋敷図」(福岡藩関係資料)
九州歴史資料館所蔵

図2-4-1-3 「文政十二丑三月廿一日江戸大火一件書状并書付類之写」*
福岡市総合図書館所蔵伊丹資料


 また、③は前述の文政一二年(一八二九)四月六日の大火の際に書き留められた被災絵図で、中屋敷手前で焼け止まっていることがわかる。なお、この火災のときに藩士の伊丹家では西久保などで読売の者から摺物(すりもの)を買ったという記述(「文政十二丑三月廿一日江戸大火一件書状并書付類之写」)があり、火災範囲を絵入りで速報する焼場方角附(やけばほうがくづけ)などを購入して情報源としていたことがわかる。また、福岡藩には出入関係を結ぶ町奉行所の同心がいたようで、南町奉行所の同心相場半左衛門から被災状況の情報を得ている。③はこうした過程で伊丹家当主が書き留めたものと考えられる。
 ところで、黒田家では中屋敷に国元の太宰府天満宮を勧請しており、幕末には江戸の名所の一つとして知られた。