浅野家中屋敷

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 浅野家と赤坂との関係は古く、浅野長政(ながまさ)の長男幸長(よしなが)(一五七六~一六一三)は徳川家康の命を受け、赤坂見附門とともに江戸城外堀として堰堤(えんてい)(堤防)を築き、これによって溜池の整備普請を行う計画を任された(実際には家臣で甲州人の矢島長雲(ちょううん)にあたらせた)。そしてその際に幸長は中屋敷を元和六年(一六二〇)に拝領している。また、延宝年間(一六七三~一六八一)以前には、長政の次男で幸長のあとを相続した広島藩初代藩主長晟(ながあきら)の庶長子長治(ながはる)(一六一四~一六七五)に始まる支藩三次(みよし)藩の上屋敷が三河台(現在の六本木二~四丁目)にあって、元禄一四年(一七〇一)三月一四日、赤穂藩主浅野長矩(ながのり)(一六六七~一七〇一)が江戸城内松の廊下で高家肝煎の吉良上野介義央(よしなか)(一六四一~一七〇三)に刃傷に及び即日切腹となると、正室の瑤泉院(ようぜんいん)(一六七四~一七一四)は実家のこの屋敷に引き取られている。その後、享保五年(一七二〇)五月に五代目藩主長寔(ながざね)(一七一三~一七二〇)がわずか八歳で死去すると、三次藩は廃藩となり、所領は本家の広島藩に還付され、屋敷も引き払われている。後述のように、明地(あきち)となったこの場所に、やがて一ツ木町から赤坂氷川社が遷座してくるのである。
 広島藩浅野家は慶長一〇年(一六〇五)に拝領した上屋敷一七三九六坪と向屋敷七六七七坪を外桜田霞ケ関に持ち、幕末期には前述中屋敷以外に、下屋敷として青山に一〇六一一坪、北本所(現在の東京都墨田区東駒形、本所、太平など)に六〇七六坪余、築地に六四三三坪余、青山原宿(現在の東京都渋谷区神宮前、北青山)に三三八七七坪、青山五十人町(現在の北青山二丁目)に三二八九坪、隠田(おんでん)村(現在の東京都渋谷区神宮前、渋谷、代々木神園町)に二二二三坪余があった。なお、赤坂の中屋敷は寛文四年(一六六四)一二月一五日に三四九八坪五合を加増されたが、元禄八年(一六九五)二月二三日に召し上げられ、宝永七年(一七一〇)閏八月二七日に再度同所を拝領して、幕末に至った(「江戸藩邸沿革事蹟」)。
 この中屋敷の絵図については、①「赤坂御屋敷惣絵図」、②「赤坂御屋敷御屋形廻仮建絵図」 * (図2-4-1-4)、③「赤坂御屋敷惣絵図」、④「御焼失以前赤坂御屋敷惣絵図」 * (図2-4-1-5)の合計四点が確認できる。いずれも年代が不明ではあるものの、以下に各絵図から判明する屋敷利用の実態を述べていきたい。

図2-4-1-4 「赤坂御屋敷御屋形廻仮建絵図」*
広島市立中央図書館浅野文庫所蔵
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図2-4-1-5 「御焼失以前赤坂御屋敷惣絵図」*
広島市立中央図書館浅野文庫所蔵
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 このうち①③④は屋敷の全体図で、それによれば、屋敷の北角、淨土寺に面したところに柵門があり、ここから南西方向に進むと「御客御門」と「御勝手御門」とに分かれている。屋敷中央から北東に向かって御殿が配置され、その東側には池を配した庭園があった。また、これとは別に西側には大きな池があって、畔に稲荷祠などがみえる。そして専修寺や松泉寺との屋敷境には、「小姓多門」、すなわち小姓衆の長屋が見える。一方、中央から南側にかけて馬場や厩・作事小屋などが置かれていたほか、南端には長屋が並び、南西の法安寺に面したところに裏門があって、そこから西の塀沿いに長屋が配置されていた。
 三図の違いは御殿の面積や間取りであろう。①は畳数の記載があるだけなので詳細はわからないが、二色に色分けされており、門に近い部分が表の空間、その奥の部分が「奥」の空間と思われる。③④は①に比してかなり間取りの記載が多く、「御客御門」から入る御殿東側の空間は庭園を望み、書院などが並んでいる。一方、「御勝手御門」から入る空間には料理の間や台所、その奥には「奥」の空間が見える。なお、③の最奥部に「女中部屋」と記載がある部分は、①と対応している。また、②は御殿部分のみを描いたもので、応接に使用する空間や、政務をとる空間で構成される表部分と、藩主とその家族や奥女中らの住む「奥」部分とが詳細に描かれている。なお、これら四図の年代は明らかではないものの、④は「御焼失以前」とあり、②は「仮建」とあるので、火災を契機に間取りが変化していることがわかるが、いずれも上屋敷の御殿機能と類似しており、浅野家中屋敷の場合は上屋敷の代替機能としての役割を果たすことが多かったと推測できよう。