溜池と武家屋敷

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 赤坂地域に隣接し、外堀の一部を形成しているのが、溜池である。寛永九年(一六三二)頃刊行の『武州豊嶋郡江戸庄図』(一章の図1-1-1-2参照)に「ためいけ 江戸すいとうノみなかミ」と書き込みがみえる。これによっても明らかなように、当初溜池は江戸中心部の水源として機能していたわけである。また、明暦三年(一六五七)刊の『新添江戸之図』にも「江戸水道水上」とあるが、当時赤坂門周辺には玉川上水が給水されていたはずである。玉川上水は多摩川の水を羽村で取り入れたもので、玉川庄右衛門・清右衛門によって承応三年(一六五四)に開発された。それゆえ、『新添江戸之図』の表記は、まだ完成間もない上水と溜池の水を併用する状況を示しているのだろう(上水については、一章二節三項参照)。
 一方、享保一七年(一七三二)刊行の『江戸砂子温故名跡誌』には「此池の鮒は欽命によりて江州湖水の鮒を放すと也。しかし湖の鮒はひらめなり。此池の鮒は丸めなり。土地ニよつて異なりといへり」とあって、幕府の意向で琵琶湖の鮒を放ったことが記されている。これが同書の補遺・再校版では、「山王社地の南より赤坂にいたる」「御入国のころ、此池水をしばらく上水に用られしよし、古老申伝る也。又此池をいにしへ狭山の池といふよし、説あれどもその証なし。一の巻に記がごとし」と加筆されている。徳川将軍家の産土神(うぶすながみ)である山王権現(現在の千代田区永田町の日枝神社)と赤坂の地を隔てる存在が溜池であり、ここでも近世初期には上水として利用されていたことが述べられている。なお、これを裏付ける溜池を基点とした上水遺構が、発掘によって検出されているのが注目される(一章二節三項参照)。
 また溜池は眺望がよく、一二月の看雪(雪見)の名所でもあったほか、赤坂側の湖畔には桐畑が広がっていた。桐の木は成長が早いため、溜池の補強のために植えられたといわれるが、安政三年(一八五六)四月の改印がある歌川広重(一七九七~一八五八)の「名所江戸百景 赤坂桐畑」に描かれているように、幕末に至るまで江戸の名所として広く認識されていた。当然、湖畔には水茶屋なども多かったようだが、斎藤月岑(げっしん)(一八〇四~一八七八)が編纂した『武江年表』には、天保一三年(一八四二)に「溜池上白山社取払ふ」とあり、翌一四年(一八四三)夏に「溜池の端へ馬場を築かせらる」と記されている。月岑は実際に同一四年閏九月二九日の日記に「溜池上茶や、のこらず御取払、同所下ニ壱丁程之処御築立」(『斎藤月岑日記』)と記述している。事実、湖畔の白山社の存在は天保五年に出された『江戸名所図会』の挿絵にも描かれている。要するに天保の改革の風俗統制によって溜池湖畔の水茶屋が白山社とともに一斉撤去となり、馬場ができるなど、新たな土地利用が生まれたことを示しているのである。
 これより以前、文政期(一八一八~一八三〇)には「溜池端芝御霊屋御掃除屋敷代地」一七七坪(町内一九軒、うち家主一軒、店借一八軒)、「溜池端芝永井町代地」二一九坪四合一勺六才(町内一四軒、うち家守三軒、地借一〇軒、店借一軒)、「溜池端芝青竜寺門前代地」二二〇坪七合五勺(町内一五軒、うち家主四軒、地借四軒、店借七軒)、「溜池榎坂床見世」(榎坂上通一六軒、下通三軒)という四か所の土地利用が確認できる(「町方書上」)。すでに一九世紀に入る頃には、赤坂門外から溜池にかけての土手沿いの地域に、町人による土地利用が進んでいたことがわかる。
 こうした溜池端明地は、元来火除明地(ひよけあきち)としての機能が期待されていたのだが、その土地利用には周辺の武家屋敷も乗り出しており、天保元年(一八三〇)調査の「赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図」(図2-4-1-6)によると、溜池端の土手部分に次のような権利関係が生まれていることがわかる。

図2-4-1-6 「赤坂溜池今井台麻布竜土青山一円絵図」(部分)
国立国会図書館デジタルコレクションから転載


 ①赤坂田町一~四丁目向いに「紺屋物干場拝借地」「紺屋合羽屋共物干場拝借地」
 ②同五丁目向いに「堀口儀八郎」「町屋」「今津仁兵衛・田中源兵衛拝借地」、その奥の溜池側に「松平備前守御預地」
 ③芝永井町町屋代地後ろに「芝永井町代地物干場拝借地」、芝青龍寺門前町町屋代地後ろに「青龍寺門前町代地物干場拝借地」
 ④「芝永井町代地物干場拝借地」と、「芝青龍寺門前町代地物干場拝借地」の北側の後ろに「草花植付拝借地」、そのさらに奥の溜池側に「真田伊豆守御預地」
 ⑤旗本横田筑後守屋敷後ろに「横田筑後守大的稽古場拝借地」、旗本土岐主膳屋敷後ろに「土岐主膳御預地」
 ⑥「芝青龍寺門前町代地物干場拝借地」南側と、「横田筑後守大的稽古場拝借地」、「土岐主膳御預地」の北側後ろに「松平大和守御預地」
 ⑦「土岐主膳御預地」の南側、榎坂・水番屋後ろに「松平肥前守御預地」と「大溜」
 なかでも、①の溜池端の北側は紺屋・合羽屋の物干場として利用されているが、赤坂田町一丁目の書上によれば、もともとこの部分は幕府普請方の持場であり、松平備前守(上総大多喜藩)の預地だったが、宝暦一〇年(一七六〇)に、このうち一四〇〇坪が赤坂伝馬町・田町の紺屋・合羽屋の物干場として利用することを許可されている(「町方書上」)。また、②の「今津仁兵衛・田中源兵衛拝借地」については、元来「町屋」部分を明暦二年(一六五六)に神田上水白堀通り樋請負人の服部屋清右衛門が拝領町屋敷(二章二節三項参照)とし、安永七年(一七七八)九月に今津・田中両名の先祖がこれを改めて拝領町屋敷とした際、普請方持場の幅二間×長さ三七間(約三・六×六六・八メートル)余のこの地も併せて拝借したのだという(前掲「町方書上」)。なお、今津仁兵衛は幕府の御細工所支配御買物方を、田中源兵衛は同支配御経師を代々務めていた。
 一方、溜池端明地の中央から南側にかけては、いずれも近隣に屋敷を構える旗本・大名家が普請方から拝借したものであり、大身旗本の横田家(九五〇〇石)、土岐家(三五〇〇石)のほか、福岡藩黒田家(松平備前守)、信濃松代藩(真田伊豆守)、川越藩(松平大和守)、佐賀藩鍋島家(松平肥前守)へ預地となっている。
 そこで「御府内往還其外沿革図書」(二章三節一項参照)によって、この地域の変遷を見ると、延宝年間(一六七三~一六八一)は南側を旗本二家が拝領しているばかりだったが、宝永四年(一七〇七)段階では、北端の明地を除いて、三一家の旗本屋敷となっている。その後、享保年間(一七一六~一七三六)には旗本屋敷はすべて収公されるとともに、溜池の南側が一部埋め立てられて大溜が生まれている。そして、紺屋・合羽屋の物干場が北側の通り沿いに設けられている他は、畑地に改められている。その後、宝暦年間(一七五一~一七六四)には大部分を近隣の大名家の預地通りとしているが、この頃から南側の池沿いに幕府小普請組の大的稽古場(おおまとけいこば)(弓練習用の大きな的を設けた稽古場)が設置されている。そして、明和・安永年間(一七六四~一七八一)には南側に三家の旗本が屋敷を拝領している。明地を分割して大名・旗本に預ける状況が確認できるのは、文化年間(一八〇四~一八一八)のことで、小普請組の大的稽古場は廃されている。前述「赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図」の示す土地利用状況は、預地の大名・旗本の変化があるものの、以後幕末まで大きな変化はみられない。ただし、諸外国との対外的な緊張関係が高まる幕末期になると、南側の大溜周辺の区画に再び大的稽古場が現れるとともに、馬場も設置されている。  (滝口正哉)