赤坂の旗本

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 赤坂の中央部分の谷地にある中之町(現在の赤坂六丁目)は赤坂築地ともいわれた地域で、ここは一七世紀中頃から埋め立てられて旗本屋敷が建ち並んでいたほか、広島藩浅野家中屋敷から北の一帯は元禄年間末(一七〇〇頃)には旗本屋敷や黒鍬組(くろくわぐみ)の大縄拝領地となっている。周辺の旗本屋敷地も、明暦三年(一六五七)の大火前にはおおむねその原型が形成されたといえるだろう。旗本としては、五〇〇~一〇〇〇石クラスの者が多いが、前述の横田家、土岐家のほか、柴田家(五五〇〇石余)、朽木家(三〇〇〇石余)、妻木家(三〇〇〇石余)など大身旗本の存在もあり、一八世紀以降幅広い層が赤坂地域に屋敷を構えていたといえよう。
 また、特徴的なのは定火消(じょうびけし)屋敷が二か所あることで、赤坂門外と溜池台に設置されていた。定火消は幕臣による消防組織で、明暦の大火の翌年にあたる万治元年(一六五八)に設置され、宝永元年(一七〇四)以降は、一〇名の定火消の下にそれぞれ与力六名、同心三〇名と、火消人足である臥煙(がえん)が配属されていた。定火消には財政的にゆとりのある三〇〇〇石以上の大身旗本が任じられるのが通例で、定火消屋敷は八重洲河岸、半蔵門外、四谷門外など一〇か所に設置されていた。ちなみに、赤坂の地に定火消屋敷が二か所あるのは、冬場の北西風に対応してのことと考えられる。
 本項では、以下比較的記録の豊富な森山孝盛(たかもり)(一七三八~一八一五)と勝海舟(一八二三~一八九九)に注目して、旗本の屋敷居住の実態をみていきたい。