勝海舟

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 勝海舟(一八二三~一八九九)は文政六年(一八二三)正月三〇日、父小吉(一八〇二~一八五〇)の実家である本所亀沢町の旗本男谷(おたに)家で誕生し、通称を麟太郎といった。海舟は七歳のときに本所入江町(現在の東京都墨田区緑)の旗本岡野孫一郎の屋敷の一部を借りて移り、天保九年(一八三八)に家督を相続している。その後、弘化三年(一八四六)には赤坂田町四丁目向いの屋敷に転居し、さらに安政六年(一八五九)七月に赤坂氷川社の北西に隣接する地に移っている。海舟は幕末の動乱期にこの地に屋敷を構えていたわけだが、赤坂の地とは縁が深く、維新後、徳川家に従って静岡に移ったのち、東京に戻った明治五年(一八七二)から晩年まで氷川町一〇番地(現在の赤坂六丁目、旧氷川小学校)に二三〇〇坪余の邸宅を構えている。海舟は諱(いみな)を義邦(よしくに)といったが、維新後官位の「安房守」にちなんで「安芳(やすよし)」に改めている。
 勝が赤坂田町(現在の赤坂二・三丁目)に移ったときは無役の小普請だったが、前年に妻民子を迎えたことと、当時勝が師事していた福岡藩の赤坂中屋敷内の長屋に蘭学者の永井青崖(せいがい)がいたことも転居の理由として挙げられるだろう。実際に勝はこの家で寝る間を惜しんで、蘭和対訳辞書『ドゥーフ・ハルマ』の筆写を成し遂げたと言われる。そして嘉永六年(一八五三)の黒船来航後に海防意見書を幕府に出し、老中阿部正弘(一八一九~一八五七)の目に留まったことから、以後、阿部の知遇を得ることとなる。安政二年(一八五五)に長崎海軍伝習所に入門し、同年一〇月から長崎赴任となり、それまでの家禄四一石が一〇〇石に加増されている。その間、勝は同六年一月一五日に帰府するまで、赤坂田町の屋敷を留守にしていたのである。勝は帰府直後、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられるが、七月には前述した森山家の屋敷の道(本氷川坂)を挟んだ東側にある稲垣豊三郎の屋敷跡に移っている(図2-4-2-1では加藤求馬の屋敷となっている)。
 勝の日記は、文久二年(一八六二)閏八月から明治三一年(一八九八)までのものが残っている。屋敷内での生活をうかがわせる記述は乏しいが、勝はこの屋敷に幕臣や諸藩の家臣、学者など様々な人物の来訪を毎日のように受け入れていることがわかる。やがて勝は混迷する政情にともなって上方に出張することが多くなるが、元治元年(一八六四)一一月一〇日に軍艦奉行を罷免されて寄合となり、慶応二年(一八六六)五月二八日に再び軍艦奉行を命じられて大坂に向かうまで、この屋敷で謹慎生活を送っている。しかし、その間も勝の屋敷を訪れる人々は多く、箱館奉行を務めた杉浦梅潭(ばいたん)(一八二六~一九〇〇)をはじめとする幕臣や、高崎正風(まさかぜ)(一八三六~一九一二)ら薩摩・越前・庄内などの諸藩士、パリ万博(一八六七)に日本人の商人として唯一参加した清水卯三郎(うさぶろう)(一八二九~一九一〇)などがたびたび訪ねており、維新以前に勝邸が最も活況を呈していたのはこの頃といえる。その後、明治元年(一八六八)九月九日には実母信子が駿府に移り、勝自身は一〇月一二日に到着し、廃藩置県後の同五年三月六日に東京に戻るまでの間、勝一家は主家徳川家が拠点とする静岡で生活していた。そのため、東京では新たに屋敷を求めることとなり、本氷川坂の屋敷からもほど近い、五五〇〇石の元旗本柴田七九郎の屋敷を五月二三日に五〇〇両で譲り受けているのである。 (滝口正哉)